た。
肉と肉とが、相搏つ音が、風雨の音にも紛れず、凄じい音を立てた。身体と身体とが、打ち合ふ音、筋肉と筋肉とが、軋み合ふ音、それは風雨の争ひにも、負けないほどに恐ろしかつた。
其の中《うち》にどう[#「どう」に傍点]と家中を揺がせる地響を打つて、一方が投げ出される音が聞えた、それに続いて転がり合ひながら、格闘する凄じい音が続いた。
「強盗だ! 強盗だ! 早く老爺《ぢいや》を呼んで来い! 瑠璃子! 瑠璃子!」
戦ひが不利と見えて、勝平の声は悲鳴に近かつた。
瑠璃子は、物事の烈しい変化に、気を奪《と》られたやうに、ボンヤリ闇の中に立つてゐた。身に迫つた危険を、思ひがけなく脱し得た安心と、新しく突発した危険に対する不安とで、心が一種不思議な動乱の中に在つた。
勝平の悲鳴を聴いてゐると、助けてやらねばならぬと思ひながら、一種の小気味よさを感ぜずにはゐられなかつた。自分に獣の如く迫つて来た彼が、突然の侵入者に依つて、脆くも取つて伏せられてゐる。さう思ふと瑠璃子の動乱した胸にも皮肉な快感が、ぞく/\とこみ上げて来る。
格闘は尚《なほ》続いた。組み合ひながら、座敷中をのたくつてゐる恐ろしい物音が絶えなかつた。
「瑠璃子! 瑠璃子! 早く、早く。」
援けを呼ぶ勝平の声は、だん/\苦しさうに喘いで来た。
瑠璃子の心の裡に、もつと勝平を苦しませてやれ、かうした不意の出来事に依つて、もつと彼を懲してやれと云ふ、勝平に対する憎悪の心持と、平生の憎悪は兎に角、不時の災難に苦しんでゐる相手を、援けてやらうと云ふ人間的な心持とが、相争つた。
其裡に、ゼイ[#「ゼイ」に傍点]/\と息も絶えさうに、喘ぎ始めた勝平の声が、聞え出した。
「苦しい! 苦しい! 人殺し! 人殺し!」
勝平は、到頭最後の悲鳴を出してしまつた。さうした声を聞くと、瑠璃子の心にも、勝平に対する憐憫が湧かずには居なかつた。彼女は、始めて我に返つたやうに、台所の方に駆け出しながら、大声を出した。
「老爺《ぢいや》! 老爺! 早く来ておくれ! 泥棒! 泥棒!」
瑠璃子の声も、スツカリ上ずツてしまつてゐた。が、さう叫んだ時、彼女の頭の中に突然恋人の直也の事が閃いた。彼は、勝平を射たうとして誤つて、美奈子を傷つけた為、危く罪人とならうとしたのを、勝平に対する父の子爵の哀訴のために、告訴されることを免れた。が、彼は敵《かたき》の勝平からさうした恩恵を受けたことを、死ぬほど恥しがつて、学業を捨ててしまつて、遠縁の親戚が経営してゐるボルネオの護謨《ゴム》園に走らうとしてゐる。瑠璃子は、そんな噂を、耳にはさんでゐる。が、あの多血性な恋人は、さうした逃避的な態度を、捨てゝ、その恋の敵《かたき》を倒すために、再び風雨の夜に乗じて迫つたのであらうか。否、自分に訣別するため、外《よそ》ながら自分を見ようとした時、偶然自分が危難に遭遇したため、前後の思慮もなく飛び込んだのではないだらうか。
強盗! 泥棒! 強盗や泥棒が、あゝした襲撃を為すだらうか。もし、あれが直也だつたら、縦令《たとひ》、勝平を倒したにしろ、彼の一生はムザ/\と埋れてしまふのだ。尤も、今でも自分のために、半分埋れかけてゐるのだが。
さう思ふと、瑠璃子は老爺《ぢいや》を呼ぶ声も出なくなつてしまつて、再び其処へ立ち竦《すく》んだ。
が、瑠璃子の声に騒ぎ立つた女中は、声を振り搾つて老爺《ぢいや》を呼んだ。
四
叫び立てる女中達の声に、別荘番の老爺《ぢいや》は驚いて馳け付けて来た。強盗だと聴くと、いきなり取つて返して、古い猟銃用の村田銃を持つて来た。彼は手早く台所の棚から、カンテラを取り出すと、取り乱す容子もなく、灯を点じて、戸外同様に風雨の暴《あ》れ狂ふ広間の方へと、勇ましく立ち向つた。もう六十を越した老人ではあつたが、根が漁師育ちである丈《だ》けに、胆力はガツシリと据つてゐた。
瑠璃子は、勝平と相搏つてゐる相手が、もしや恋人の直也でありはしないかと思ふと、此の一徹の老人が、一気に銃口を向けやしないかと思ふ心配で、心が怪しく擾れた。それかと云つて、強盗であるかも知れぬ闖入者を、庇ふやうな口は利けなかつた。台所に顫へてゐる女中を後に残しながら、固唾《かたづ》を飲みながら、老人の後から、随《つ》いて行つた。
座敷は、風雨で滅茶苦茶になつてゐた。室の中に渦巻く風のために、硝子《ガラス》戸が三枚も外れてゐた。其処から吹き入る雨のために、水を流したやうに、濡れた畳が、カンテラの光に物凄く映つてゐた。今にも、天井が吹き抜かれるやうに、バリ/\と恐ろしい音を立てゝ、鳴り続けた。
老人は、カンテラの光を翳しながら、
「旦那! 旦那! 喜太郎が参りましたぞ!」と次ぎの間から、先づ大声で怒鳴つた。
が、勝平はそれに対し
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