ら、相対してゐた。
 空に風と雨とが、戦つてゐるやうに、地に彼等は戦つてゐるのだつた。瑠璃子は戦ふべき力もなかつた。武器も持つてはゐなかつた。たゞ彼女の態度に備る天性の美しい威厳一つが、勝平の獣的な攻撃を躊躇させてゐた。が、その躊躇も、永く続く筈はなかつた。勝平の眼が、段々狂暴な色を帯びると共に、彼は勢《いきほひ》猛《まう》に瑠璃子に迫つて来た。彼女は、相手の激しい勢に圧されるやうにヂリ/\と後退《あとずさ》りをせずにはゐられなかつた。
 勝平の今少し前の懺悔や告白が、かうした態度に出るまでの径路であつた――一旦|下手《したて》から説いて見て、それで行かなければ腕力に訴へる――かと思ふと、勝平に対して、懐いてゐた一時の好感は、煙のやうになくなつて、たゞ苦い苦い憎悪の滓|丈《だけ》が、残つてゐた。指一つ触れさせてなるものか、さうした堅い決意が、彼女の繊細な心臓を、鉄のやうに堅くしてゐた。
 が、彼女の精神的な強さも、勝平の肉体の上の優越に打ち勝つことが出来なかつた。何時の間にか追ひ詰められたやうに、部屋の一方に、海に面した硝子《ガラス》戸の方へ、逃るゝ道のない硝子《ガラス》戸の方へ、瑠璃子は圧し付けられてゐる自分を見出した。
 其処で、追ひ詰られた牝鹿と獅子とのやうに、二人は暫らくは相対してゐた。
 暴風雨は、少しも勢ひを減じてゐなかつた。岸を噛んで殺到する波濤の響が、前よりも、もつと恐ろしく聞えて来た。が、相争つてゐる二人の耳には、波の音も風の音も聞こえては来なかつた。
「何をなさるのです。貴君《あなた》は?」
 勝平が、その堅肥りの巨い手を差し出さうとした時、瑠璃子は初めて声を出して叱した。
「何をしようと、俺《わし》の勝手だ。夫が妻を、生《いか》さうが殺さうが。」
 勝平は、さう云ひながら、再び猿臂《ゑんぴ》を延して、瑠璃子の柔かな、やさ肩を掴まうとしたが、軽捷な彼女に、ひらりと身体を避けられると、酒に酔つた足元は、ふら/\と二三歩|蹌《よろ》めいて、のめりさうになつた。
「恥をお知りなさい! 恥を! 妻ではございましても奴隷ではありませんよ。暴力を振ふうなんて。」
 彼女は、汚れた者を叱するやうに、吐き捨てるやうに云つた。彼女の声は、遉《さすが》にわな/\と顫へてゐた。
「なに! 恥を! 恥も何もあるものか、俺《わし》はもう獣になり切つてゐるのぢや。」
 勝平は、さう云つたかと思ふと前よりももつと烈しい勢で瑠璃子に迫つた。かうしたあさましい人間の争ひを、讃美するかのやうに、風は空中に凄じい歓声を挙げ続けてゐる。
 瑠璃子は、ふとその時|護《まも》り刀のことを思ひ出した。かうした非常な場合には、それを抜き放つて自分を護る外はない。が、さう思ひ付いたものの、それはトランクの底深く、蔵つてあるので、急場の今は、何の援けにもならなかつた。
 彼女は、最後の手段として、声を振り搾つて女中を呼んだ。が、彼女の呼び声は、風雨の音に消されてしまつて、台所の方からは、物音も聞えて来なかつた。
 瑠璃子が、愈《いよ/\》窮したのを見ると、勝平は愈《いよ/\》威丈高になつた。彼は、獣そのまゝの形相を現して居た。ほの暗い洋燈《ランプ》の光で、眼が物凄く光つた。
「あれ!」と、瑠璃子が身を避けようとした時、勝平の強い腕は、彼女の弱い二の腕を、グツと握り占めてゐた。
「何をするのです。お放しなさい!」
 彼女は必死になつて、振りほどかうとした。が、強い把握は、容易に解けさうもなかつた。
「何を! 何をするのです!」
 瑠璃子は、死者狂ひになつて突き放した。が、突き放された勝平は、前よりも二倍の狂暴さで、再び瑠璃子に飛びかゝつた。
 その時だつた。瑠璃子の背後の雨戸と硝子《ガラス》戸とが、バタ/\と音を立てゝ外れると、恐ろしい一陣の風が、サツと室の中へ吹き込んだ。
 洋燈《ランプ》は忽ちに消えてしまつた。が、灯の消える刹那だつた。風と共に飛び込んで来た一個の黒影が今瑠璃子に飛びかゝらうとする勝平に、横合からどうと組み付くのが、灯の消ゆるたゆたひ[#「たゆたひ」に傍点]の瞬間に瞥見された。

        三

 硝子《ガラス》戸の外れるのと共に、室の中へ吹き入つた風と雨とは、忽ちに、二十畳に近い大広間に渦巻いた。床の間の掛軸が、バラ/\と吹き捲られて、挑《は》ね落ちると、ガタ/\と烈しい音がして、鴨居の額が落ちる、六曲の金屏風が吹き倒される。一旦吹き込んだ風は逃れ口がないために、室内の闇を縦横に馳せ廻つて、何時までも何時までも狂奔した。
 而も、此の風雨の暴《あ》れ狂ふ漆黒の闇の中に、勝平は飛び込んだ黒影と、必死の格闘を続けてゐたのだ。
「貴様は誰だ! 誰だ!」
 不意の襲撃に驚いたらしく勝平は、狼狽して怒号した。が、相手は黙々として返事をしなかつ
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