さう思ひながらも、俺《わし》は貴女を思ひ切ることが出来ないのです。俺《わし》は金で買ひ損つたものを、俺《わし》の真心で、買はうと思ひ立つたのです。いや、買ふのではない、貴女の前に跪《ひざまづ》いて、買ふことの出来なかつたものを哀願しようとさへ思つてゐるのです。また、さうせずにはゐられないのです。先刻《さつき》も申しました通《とほり》、もう一刻も貴女なしには生きられなくなつたのです。」
変に言葉までが改まつた勝平は、恋人の前に跪いてゐる若い青年か、何かのやうに、激してゐた。彼の巨きい真赤な顔は、何処にも偽りの影がないやうに、真面目に緊張してゐた。彼は大きい眼を刮《む》きながら、瑠璃子の顔を、ぢつと見詰めてゐた。敵意のある凝視なら、睨み返し得る瑠璃子であつたが、さうした火のやうな熱心の凝視には却つて堪へかねたのであらう、彼女は、眩しいものを避けるやうに、ぢつと顔を俯けた。
「何うです! 瑠璃子さん! 俺の心を、少しは了解して下さいますか。」
勝平の声は、瑠璃子の心臓を衝《つ》くやうな力が籠つてゐた。
七
酒の力を借りながら、その本心を告白してゐるらしい勝平の言葉を、聴いてゐると、今までは獣的《ブルータル》な、俗悪な男、精神的には救はれるところのない男だと思ひ捨てゝゐた勝平にも、人間的な善良さや弱さを、感ぜずにはゐられなかつた。
あれ丈、傲岸で黄金の万能を、主張してゐた男が、金で買へない物が、世の中に儼として存在してゐることを、潔く認めてゐる。金では、人の心の愛情の断片《かけら》をさへ、買ひ得ないことを告白してゐる。彼は、今自分の非を悟つて、瑠璃子の前に平伏して彼女の愛を哀願してゐる。敵は脆くも、降つたのだ。さうだ! 敵は余りにも、脆くも降つたのだ、瑠璃子は心の裡で思はず、さう叫ばずにはゐられなかつた。
「瑠璃子さん! 俺《わし》はお願ひするのだ。俺《わし》は、俺《わし》の前非を悔いて貴女に、お願ひするのぢや。貴女は、心から俺《わし》の妻になつて下さることは出来んでせうか。これまでの偽りの結婚を、俺《わし》の真心で浄めることは出来んでせうか。俺《わし》は、この結婚を浄めるために、どんなことをしてもいゝ。俺《わし》の財産を、みんな投げ出してもいゝ。いや俺《わし》の身体《からだ》も生命《いのち》もみんな投げ出してもいゝ。俺《わし》は、貴女から、夫として信頼され愛されさへすれば、どんな犠牲を払つてもいゝと思つてゐるのです。俺《わし》は、先刻《さつき》自動車から降りて、貴女と顔を見合せた時、俺《わし》は結婚して以来初めて幸福を感じたのです。今日|丈《だけ》は、貴女が心から俺《わし》を迎へて呉れてゐる。貴女の笑顔が心からの笑顔だと思ふと、俺《わし》は初めて結婚の幸福を感じたのです。が、それも落着いて考へて見ると、貴女が俺《わし》を喜んで迎へて呉れたのも、夫としてではない、たゞこんな恐ろしい晩に必要な男手として喜んでゐるのだと思ふと、又急に情なくなるのです。俺《わし》が貴女を、賤しい手段で、妻にしたと云ふ罪を、俺《わし》の貴女に対する現在の真心で浄めさせて下さい!」
勝平は、酒のために、気が狂つたのではないかと思はれるほどに激昂してゐた。瑠璃子は相手の激しい情熱に咽せたやうに何時の間にか知らず/\、それに動かされてゐた。
「瑠璃子さん、貴女も今までの事は、心から水に流して、俺《わし》の本当の妻になつて下さい。貴女が心ならずも、俺《わし》の妻になつたことは、不幸には違ひない。が、一旦妻になつた以上、貴女が肉体的には、妻でないにしろ、世間では誰も、さうは思つてゐないのです。社会的に云へば、貴女は飽くまでも、荘田勝平の妻です。貴女も、かうした羽目に陥つたことを、不幸だと諦めて、心から俺《わし》の妻になつて下さらんでせうか。」
勝平の眼は、熱のあるやうに輝いてゐた。瑠璃子も、相手の熱情に、ついフラ/\と動かされて、思はず感激の言葉を口走らうとした。が、その時に彼女の冷たい理性が、やつとそれを制した。
『相手が余りに脆いのではない! お前の方が余りに脆いのではないか。お前は、最初のあれほど烈しい決心を忘れたのか。正義のために、私憤ではなくして、むしろ公憤のために、相手を倒さうと云ふ強い決心を忘れたのか。勝平の口先|丈《だけ》の懺悔に動かされて、余りに脆くお前の決心を捨てゝしまふのか。お前は勝平の態度を疑はないのか。彼は、お前に降伏したやうな様子を見せながら、お前を肉体的に、征服しようとしてゐるのだ。兜を脱いだやうな風を装ひながら、お前に飛び付かうとしてゐるのだ。お前が、勝平の告白に感激して、お前の手を与へて御覧! 彼は、その手を戴くやうな風をしながら、何時の間にかお前を蹂み躙つてしまふのだ。お前は敵の暴力と戦ふばかりでなく
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