り響いた。
「さあ! お酒の用意をして下さらんか。かうした晩は、お酒でも飲んで、大に暴風雨と戦はなければならん、はゝゝゝ。」
 勝平は、暴風雨の音に、怯えたやうに耳を聳てゝゐる瑠璃子にさう云つた。
 酒盃の用意は、整つた。勝平は吹き荒ぶ暴風雨の音に、耳を傾けながら、チビリ/\と盃を重ねてゐた。
「妾《わたくし》、本当に早く帰つて下さればいゝと思つてゐましたのよ。男手がないと何となく心細くつてよ。」
「はゝゝ、瑠璃子さんが、俺《わし》を心から待つたのは今宵が始めてだらうな、はゝゝゝゝ。」
 勝平は機嫌よく哄笑した。
「まあ! あんなことを、毎日心からお待ちしてゐるぢやありませんか。」
 瑠璃子は、ついさうした心易い言葉を出すやうな心持ちになつてゐた。
「何《ど》うだか。分りやしませんよ。老爺《おやぢ》め、なるべく遅く帰つて来ればいゝのに。かう思つてゐるのぢやありませんか。はゝゝゝゝ。」
 瑠璃子の今宵に限つて、温かい態度に、勝平は心から悦に入つてゐるのだつた。
「それも、無理はありません。貴女が内心|俺《わし》を嫌つてゐるのも、全く無理はありません。当然です、当然です。俺も嫌がる貴女《あなた》を、何時までも名ばかりの妻として、束縛してゐたくはないのです。これが、どんな恐ろしい罪かと云ふことが分つてゐるのです。所がですね。初めはホンの意地から、結婚した貴女が、一旦形式|丈《だけ》でも同棲して見ると、……一旦貴女を傍に置いて見ると、死んでも貴女を離したくないのです。いや、死んでも貴女から離れたくないのです。」
 余程酒が進んで来たと見え、勝平は管を捲くやうにさう云つた。

        六

 風は益々吹き荒れ雨は益々降り募つてゐた。が、勝平は戸外のさうした物音に、少しも気を取られないで、瑠璃子が酌《つ》いでやつた酒を、チビリ/\と嘗《な》めながら、熱心に言葉を継いだ。
「まあ、簡単に云つて見ると、スツカリ心から貴女に惚れてしまつたのです! 俺《わし》は今年四十五ですが、此年まで、本当に女と云ふものに心を動かしたことはなかつたのです。勝彦や美奈子の母などとも、たゞ、在来《ありきたり》の結婚で、給金の入《い》らない高等な女中をでも、傭つたやうに考うて、接してゐたのです。金が出来るのに従つて、金で自由になる女とも沢山接して見ましたが、どの女もどの女も、たゞ玩具か何かのやうに、弄んでゐたのに過ぎないのです。俺《わし》は女などと云ふものは、酒や煙草などと同じに、我々男子の事業の疲れを慰めるために存在して居る者に過ぎないとまで高を括《くゝ》つてゐたのです。所がです、俺《わし》のさうした考へは貴女に会つた瞬間に、見事に打ち破られてゐたのです。男子の為に作られた女でなくして、女自身のために作られた女、俺《わし》は貴女に接してゐると、直ぐさう云ふ感じが頭に浮かんだのです。男の玩具として作られた女ではなくして、男を支配するために作られた女、俺《わし》は貴女を、さう思つてゐるのです。それと一緒に、今まで女に対して懐いてゐた侮蔑や軽視は、貴女に対してはだん/\無くなつて行くのです。その反対に、一種の尊敬、まあさう云つた感じが、だん/\胸の中に萌して来たのです。結婚した当座は、何の此の小娘が、俺を嫌ふなら嫌つて見ろ! 今に、征服してやるから。と、かう思つてゐたのです。所が、今では貴女の前でなら、どんなに頭を下げても、いいと思ひ出したのです。貴女の愛情を、得るためになら、どんなに頭を下げても、いゝと思ひ始めたのです。何うです、瑠璃子さん! 俺《わし》の心が少しはお分りになりますか。」
 勝平は、さう云つて言葉を切つた。酔つてはゐたが、その顔には、一本気な真面目さが、アリ/\と動いてゐた。かうした心の告白をするために、故意《わざ》と酒盃《さかづき》を重ねてゐるやうにさへ、瑠璃子に思はれた。
「俺《わし》は、世の中に金より貴いものはないと思つてゐました。俺《わし》は金さへあれば、どんな事でも出来ると思つてゐました。実際貴女を妻にすることが、出来た時でさへ、金があればこそ、貴女のやうな美しい名門の子女を、自分の思ひ通《どほり》にすることが出来るのだと思つてゐたのです。が、俺《わし》が貴女を、金で買ふことが出来たと想つたのは、俺《わし》の考違《かんがへちがひ》でした。金で俺《わし》の買ひ得たのは、たゞ妻と云ふ名前|丈《だけ》です。貴女の身体をさへ、まだ自分の物に、することが出来ないで苦しんでゐるのです。まして、貴女の愛情の断片でも、俺《わし》の自由にはなつてゐないのです。俺《わし》は貴女の俺《わし》に対する態度を見て、つくづく悟つたのです。俺《わし》の全財産を投げ出しても、貴女の心の断片《きれはし》をも、買ふことが出来ないと云ふことを、つく/″\悟つたのです。が、
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