の深川本所に大|海嘯《つなみ》を起して、多くの人命を奪つたばかりでなく、湘南各地の別荘にも、可なりヒドイ惨害を蒙らせたのであつた。
「まさか先度のやうな大暴風雨にはなるまいかと思ふが、時刻も風の方向《むき》もよく似てゐるでなあ!」
 老爺は、心なしか瑠璃子達を脅すやうに、首を傾げた。
 夜に入つてから、間もなく雨戸を打つ雨の音が、ボツリ/\と聞え出したかと思ふと、それが忽ち盆を覆すやうな大雨となつてしまつた、天地を洗ひ流すやうな雨の音が、瑠璃子達の心を一層不安に充たしめた。
 恐ろしい風が、グラ/\と家を吹き揺すつたかと思ふ途端に、電燈がふつと消えてしまつた。かうした場合に、燈火の消えるほど、心細いものはない。女中は闇の中から手探りにやつと、洋燈《ランプ》を探し当てゝ火を点じたが、ほの暗い光は、一層瑠璃子の心を滅入らしてしまつた。
 暗い燈火の下に蒐つてゐる瑠璃子と女中達を、もつと脅かすやうに、風は空を狂ひ廻り、波は断《しきり》なしに岸を噛んで殺到した。
 風は少しも緩みを見せなかつた。雨を交へてからは、有力な味方でもが加はつたやうに、益々《ます/\》暴威を加へてゐた。風と雨と波とが、三方から人間の作つた自然の邪魔物を打ち砕かうとでもするやうに力を協《あは》せて、此建物を強襲した。
 グワラ/\と、何処かで物の砕け落ちる音がしたかと思ふと、それに続いて海に面してゐる廂が吹き飛ばされたと見え、ベリ/\と云ふ凄じい音が、家全体を震動した。今迄は、それでも、慎しく態度の落着を失つてゐなかつた瑠璃子もつい度を失つたやうに立ち上つた。
「何うしようかしら、今の裡に避難しなくてもいゝのかしら。」
 さう云ふ彼女の顔には、恐怖の影がアリ/\と動いてゐた。人間同士の交渉では、烈女のやうに、強い彼女も、自然の恐ろしい現象に対しては、女らしく弱かつた。
 女中達も、色を失つてゐた。女中は声を挙げて別荘番の老爺を呼んだけれども、風雨の音に遮られて、別荘番の家までは、届かないらしかつた。
 ベリ/\と云ふ廂の飛ぶ音は、尚続いた。その度に、家がグラ/\と今にも吹き飛ばされさうに揺いだ。
 丁度、此の時であつた。瑠璃子の心が、不安と恐怖のどん底に陥つて、藁にでも縋り付きたいやうに思つてゐる時だつた。悽じい風雨の音にも紛れない、勇ましい自動車の警笛《サイレン》が、暗い闇を衝いてかすかに/\聞えて来た。
「あゝお帰りになつた!」瑠璃子は甦へつたやうに、思はず歓喜に近い声を挙げた。その声には、夫に対する妻としての信頼と愛とが籠つてゐることを否定することが出来なかつた。

        五

 風雨の烈しい音にも消されずに、警笛《サイレン》の響は忽ちに近づいた。門内の闇がパツと明るく照されて、その光の裡に雨が銀糸を列ねたやうに降つてゐた。
 瑠璃子と女中達二人とは、その燦然と輝く自動車の頭光《ヘッドライト》に吸はれたやうに、玄関へ馳け付けた。
 微醺を帯びた勝平は、その赤い巨きい顔に、暴風雨《あらし》などは、少しも心に止めてゐないやうな、悠然たる微笑を湛へながら、のつそり[#「のつそり」に傍点]と車から降りた。
「お帰りなさいまし、まあ大変でございましたでせうね。お道が。」
 瑠璃子のさうした言葉は、平素のやうに形式|丈《だけ》のものではなく、それに相当した感情が、ピツタリと動いてゐた。
「なに、大したことはなかつたよ。それよりもね、貴女《あなた》が蒼くなつてゐるだらうと思つてね。此間の大|暴風雨《あらし》で、みんなビク/\してゐる時だからね。いや、鎌倉まで一緒に乗り合はして来た友人にね、此の暴風雨《あらし》ぢや道が大変だから、鎌倉で宿まつて行かないかと、云はれたけれどもね。やつぱり此方《こつち》が心配でね。是非葉山へ行くと云つたら、冷かされたよ。美しい若い細君を貰ふと、それだから困るのだと、はゝゝゝゝゝ。」
 凄じい風の音、烈しい雨の音を、聞き流しながら、勝平は愉快に哄笑した。自然の脅威を挑ね返してゐるやうな勝平の態度に接すると、瑠璃子は心強く頼もしく思はずにはゐられなかつた。男性の強さが、今始めて感ぜられるやうに思つた。
「妾《わたくし》何《ど》うしようかと思ひましたの。廂がベリベリと吹き飛ばされるのですもの。」
 瑠璃子は、まだ不安さうな眼付をしてゐた。
「なに、心配することはない。十月一日の暴風雨の時だつて、土堤《どて》が少しばかり、崩された丈《だけ》なのだ。あんな大暴風雨が、二度も三度も続けて吹くものぢやない。」
 勝平は、瑠璃子が後から、着せかけた褞袍《どてら》に、くるまりながら、どつかりと腰を降ろした。
 が、勝平のさうした言葉を、裏切るやうに、風は刻々吹き募つて行つた。可なり、ピツタリと閉されてゐる雨戸迄が、今にも吹き外されさうに、バタ/\と鳴
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