な薄緑の朗かな空が、山と海とを掩うてゐた。海は毎日のやうに静かで波の立たない海面は、時々緩やかなうねり[#「うねり」に傍点]が滑かに起伏してゐた。海の色も、真夏に見るやうな濃藍の色を失つて、それ丈《だけ》親しみ易い軽い藍色に、はる/″\と続いてゐた。その端《はて》に、伊豆の連山が、淡くほのかに晴れ渡つてゐるのだつた。
十月も終に近い葉山の町は、洗はれたやうに静かだつた。どの別荘も、どの別荘も堅く閉されて人の気勢《けはひ》がしなかつた。
御用邸に近い海岸にある荘田別荘は、裏門を出ると、もう其処の白い砂地には、崩れた波の名残りが、白い泡沫を立ててゐるのだつた。
勝平は、葉山からも毎日のやうに、東京へ通つてゐた。夫の留守の間、瑠璃子は何人《なんぴと》にも煩はされない静寂の裡に、浸つてゐることが出来た。
瑠璃子はよく、一人海岸を散歩した。人影の稀な海岸には、自分一人の影が、寂しく砂の上に映つてゐた。遥に/\悠々と拡がつてゐる海や、その上を限《かぎり》なく広大に掩うてゐる秋の朗かな大空を見詰めてゐると、人間の世のあさましさが、しみ/″\と感ぜられて来た。自分自身が、復讐に狂奔して、心にもない偽りの結婚をしてゐることが、あさましい罪悪のやうに思はれて、とりとめもなく、心を苦しめることなのであつた。
葉山へ移つてから、三四日の間、勝平は瑠璃子を安全地帯に移し得たことに満足したのであらう。人のよい好々爺になり切つて、夕方東京から帰つて来る時には、瑠璃子の心を欣《よろこば》すやうな品物や、おいしい食物などをお土産にすることを忘れなかつた。
葉山へ移つてから、丁度五日目の夕方だつた。其日は、午過ぎから空模様があやしくなつて、海岸へ打ち寄せる波の音が、刻一刻凄じくなつて来るのだつた。
海に馴れない瑠璃子には、高く海岸に打ち寄せる波の音が、何となく不安だつた。別荘番の老爺は暗く澱んでゐる海の上を、低く飛んで行く雲の脚を見ながら、『今宵は時化《しけ》かも知れないぞ。』と、幾度も/\口ずさんだ。
夕刻に従つて、風は段々吹き募つて来た。暗く暗く暮れて行く海の面《おもて》に、白い大きい浪がしらが、後から/\走つてゐた。瑠璃子は硝子《ガラス》戸の裡から、不安な眉をひそめながら、海の上を見詰めてゐた。烈しい風が砂を捲いて、パラ/\と硝子《ガラス》戸に打ち突けて来た。
「あゝ早く雨戸を閉めておくれ。」
瑠璃子は、狼狽して、召使に命じると、ピツタリと閉ざされた部屋の中に、今宵に限つて、妙に薄暗く思はれる電燈の下に、小さく縮かまつてゐた。人間同士の争ひでは、非常に強い瑠璃子も、かうした自然の脅威の前には、普通の女らしく臆病だつた。海岸に立つてゐる、地形の脆弱な家は、時々今にも吹き飛ばされるのではないかと思はれるほど、打ち揺いだ。海岸に砕けてゐる波は、今にも此の家を呑みさうに轟々たる響を立てゝゐる。
瑠璃子には、結婚して以来、初めて夫の帰るのが待たれた。何時もは、夫の帰るのを考へると、妙に身体が、引き緊つてムラ/\とした悪感が、胸を衝いて起るのであつたが、今宵に限つては、不思議に夫の帰るのが待たれた。勝平の鉄のやうな腕が何となく頼もしいやうに思へた。逗子の停車場から自動車で、危険な海岸伝ひに帰つて来ることが何となく危《あやぶ》まれ出した。
「かう荒れてゐると、鐙摺《あぶずり》のところなんか、危険ぢやないかしら。」と女中に対して瑠璃子は、我にもあらず、さうした心配を口に出してしまつた。
その途端に、吹き募つた嵐は、可なり宏壮な建物を打ち揺すつた。鎖で地面へ繋がれてゐる廂が、吹きちぎられるやうにメリ/\と音を立てた。
四
「こんなに荒れると、本当に自動車はお危なうございますわ。一層こんな晩は、彼方《あちら》でお宿りになるとおよろしいのでございますが。」
女中も主人の身を案ずるやうにさう云つた。が、瑠璃子は是非にも帰つて貰ひたいと思つた。何時もは、顔を見てゐる丈でも、ともすればムカ/\として来る勝平が、何となく頼もしく力強いやうに感ぜられるのであつた。
日が、トツプリ暮れてしまつた頃から、嵐は益《ます/\》吹き募つた。海は頻りに轟々と吼え狂つた。波は岸を超え、常には干乾びた砂地を走つて、別荘の土堤《どて》の根元まで押し寄せた。
「潮が満ちて来ると、もつと波がひどく[#「ひどく」に傍点]なるかも知れねえぞ!」
海の模様を見るために出てゐた、別荘番の老爺《おやぢ》は、漆のやうに暗い戸外から帰つて来ると、不安らしく呟いた。
「まさか、此間のやうな大|暴風雨《あらし》にはなりますまいね。」
女中も、それに釣り込まれたやうに、オド/\しながら訊いた。皆の頭に、まだ一月にもならない十月一日の暴風雨の記憶がマザ/\と残つてゐた。それは、東京
前へ
次へ
全157ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング