しまつた。
『さうだ! 勝彦を遠ざけよう。葉山の別荘へでも追ひやらう。何とか賺《すか》して、東京を遠ざけよう。』勝平はわが子に対して、さうした隠謀をさへ考へ始めてゐた。
興奮と煩悶とに労《つか》れた勝平の頭も、四時を打つ時計の音を聴いた後は、何時しか朦朧としてしまつて、寝苦しい眠に落ちてゐた。
眼が覚めた時、それはもう九時を廻つてゐた。朗かな十月の朝であつた。青い紗の窓掛を透した明るい日の光が、室中に快い明るさを湛へた。
朝の爽かな心持に、勝平は昨夜の不愉快な出来事を忘れてゐた。尨大な身体を、寝台から、ムクムクと起すと、上草履を突つかけて、朝の快い空気に吸ひ付けられたやうに、縁側《ヴェランダ》に出た。彼は自分の宏大な、広々と延びてゐる庭園を見ながら、両手を高く拡げて、快い欠伸《あくび》をした。が、彼が拡げた両手を下した時だつた。十間ばかり離れた若い楓の植込の中を、泉水の方へ降りて行く勝彦の姿を見た。彼に似て、尨大な立派な体格だつた。が、歩いて行くのは勝彦一人ではなかつた。勝彦の大きい身体の蔭から、時々ちら/\美しい色彩の着物が、見えた。勝平は、最初、それが美奈子であることを信じた。勝彦は白痴ではあつたが、美奈子|丈《だけ》には、やさしい大人しい兄だつた。勝平は何時もの通り兄妹の散歩であると思つてゐた。が、植込の中の道が右に折れ、勝平の視線と一直線になつたとき、その男女は相並んで、後姿を勝平に見せた。女は紛れもなき瑠璃子だつた。而も彼女の白い、遠目にも、くつきりと白い手は、勝彦の肩、さうだ、肩よりも少し低い所へ、そつと後から当てられてゐるのだつた。
それを見たとき、勝平は煮えたぎつてゐる湯を、飲まされたやうな、凄じい気持になつてゐた。ニヤリ/\と悦に入つてゐるらしいわが子の顔が、アリ/\と目に見えるやうに思つた。彼は、縁側《ヴェランダ》から飛び降りて、わが子の顔を思ふさま、殴り付けてやりたいやうな恐ろしい衝動を感じた。
が、それにも増して、瑠璃子の心持が、グツと胸に堪へて来た。昨夜《ゆうべ》の騒ぎを知らぬ筈がない、親子の間の、浅ましい情景《シーン》を知らぬ筈がない。隣の部屋の美奈子さへ、眼を覚してゐるのに、瑠璃子が知らない筈はない。知つてゐながら、昨夜《ゆうべ》の今日勝彦をあんなに近づけてゐる。
さう思ふと、勝平は、瑠璃子の敵意を感ぜずにはゐられなかつた。さうだ! 自分が小娘として、つまらない油断や、約束をしたのが悪かつたのだ。云はゞ降伏した敵将の娘を、妻にしてゐるやうなものである。美しい顔の下に、どんな害心を蔵してゐるかも知れない。
が、さう警戒はしながら、瑠璃子を愛する心は、少しも減じなかつた。それと同時に、眼前の情景《シーン》に対する嫉妬の心は少しも減じなかつた。
六
勝平が、縁側《ヴェランダ》の欄干に、釘付けにされながら、二人の後姿が全く見えなくなつた若い楓の林を、ぢつと見詰めてゐる時に、その林の向うにある泉水の畔から、瑠璃子の華やかな笑ひが手に取るやうに聞えて来た。
それは、雲雀《ひばり》の歌ふやうに、自由な快活な笑ひだつた。結婚して以来、もう一月以上の日が経つ内、勝平に対しては決して笑つたことのないやうな自由な快活な笑ひ声であつた。茲《こゝ》からは見えない泉水のほとりで、縦令《たとへ》馬鹿ではあるにしろ年齢《とし》だけは若い、身体|丈《だけ》は堂々と立派な勝彦が、瑠璃子と相並んで、打ち興じてゐる有様が、勝平の眼に、マザ/\と映つて来るのであつた。
彼は苦々しげに、二人に向つてでも吐くやうに、唾を遥かな地上へ吐いてから、その太い眉に、深い決心の色を凝《こ》めながら、階下へ降りて行つた。
勝平は、抑へ切れない不快な心持に、悩まされつゝ、罪のない召使を、叱り飛ばしながら、漸く顔を洗つてしまふと、苦り切つた顔をして、朝の食卓に就いた。いつも朝食を一緒にする筈の瑠璃子はまだ庭園から、帰つて来なかつた。
「奥さんは何うしたのだ。奥さんは!」勝平は、オド/\してゐる十五六の小間使を、噛み付けるやうに叱り飛した。
「お庭でございます。」
「庭から、早く帰つて来るやうに云つて来るのだ。俺が起きてゐるぢやないか。」
「ハイ。」小さい小間使は、勝平の凄じい様子に、縮み上りながら、瑠璃子を呼びに出て行つた。
瑠璃子が、入つて来れば、此の押へ切れない憤《いきどほり》を、彼女に対しても、洩さう。白痴の子を弄んでゐるやうな、彼女の不謹慎を思ひ切り責めてやらう。勝平はさう決心しながら、瑠璃子が入つて来るのを待つてゐた。
二三分も経たない裡に、衣ずれの音が、廊下にしたかと思ふと、瑠璃子は少女のやうにいそいそと快活に、馳け込んで来た。
「まあ! お早う! もう起きていらしつたの。妾《わたくし》ちつとも、知ら
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