なかつたのよ。お寝坊の貴方《あなた》の事だから、どうせ十一時近くまでは大丈夫だと思つてゐたのよ。昨夜あんなに遅く帰つて来たのに、よくまあ早くお目覚になつたこと。この花美しいでせう。一番大きくて、一番色の烈しい花なのよ。妾《わたくし》これが大好き。」
 さう云ひながら、瑠璃子は右の手に折り持つてゐた、真紅の大輪のダリヤを、食卓《テーブル》の上の一輪挿に投げ入れた。
 勝平は、何うかして瑠璃子をたしなめようと思ひながらも、彼女の快活な言葉と、矢継早の微笑に、面と向ふと、彼は我にもあらず、凡ての言葉が咽喉のところに、からんでしまふやうに思つた。
「昨夜《ゆうべ》、よくお眠りになつて? 妾《わたくし》芝居で疲れましたでせう、今朝まで、グツスリと寝入つてしまひましたのよ。こんなに、よく眠られたことはありませんわ、近頃。」
 昨夜の騒ぎを、親子三人のあさましい騒ぎを、知つてゐるのか知らないのか、瑠璃子はその美しい顔の筋肉を、一筋も動かさずに、華奢な指先で、軽く箸を動かしながら、勝平に話しかけた。
 勝平は、心の裡に、わだかまつてゐる気持を、瑠璃子に向つて、洩すべき緒《いとぐち》を見出すのに苦しんだ。相手が、昨夜の騒ぎを、少しも知らないと云ふのに、それを材料として、話を進めることも出来なかつた。
 彼は、瑠璃子には、一言も答へないで、そのいら/\しい気持を示すやうに、自棄《やけ》に忙しく箸を動かしてゐた。
 勝平の不機嫌を、瑠璃子は少しも気に止めてゐないやうに、平然と、その美しい微笑を続けながら、
「妾《わたくし》、今日三越へ行きたいと思ひますの。連れて行つて下さらない?」
 彼女は、プリ/\してゐる勝平に、尚小娘か何かのやうに、甘えかゝつた。
「駄目です。今日は東洋造船の臨時総会だから。」
 勝平は、瑠璃子に対して、初めて荒々しい言葉を使つた。彼女はその荒々しい語気を跳ね返すやうに云つた。
「あら、さう。それでは、勝彦さんに一緒に行つていたゞくわ。……いゝでせう。」

        七

 勝彦の名が瑠璃子の唇を洩れると、勝平の巨きい顔は、益《ます/\》苦り切つてしまつた。
 相手のさうした表情を少しも眼中に置かないやうに、瑠璃子は無邪気にしつこく云つた。
「勝彦さんに、連れて行つていたゞいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。妾《わたくし》一人だと買物をするのに何だか定《きま》りが付かなくつて困りますのよ。表面《うはべ》丈《だけ》でもいゝからいゝとか何とか合槌を打つて下さる方が欲しいのよ。」
「それなら、美奈子と一緒に行らつしやい。」
 勝平は、怒つた牡牛のやうにプリ/\しながら、それでも正面から瑠璃子をたしなめ[#「たしなめ」に傍点]ることが出来なかつた。
「美奈子さん。だつて、美奈子さんは、三時過ぎでなければ学校から、帰つて来ないのですもの。それから支度をしてゐては、遅くなつてしまひますわ。」
 瑠璃子は、大きい駄々つ子のやうな表情を見せながら、その癖顔|丈《だけ》は、微笑を絶たなかつた。勝平は又黙つてしまつた。瑠璃子は追撃するやうに云つた。
「何うして勝彦さんに一緒に行つていたゞいては、いけませんの。」
 勝平の顔色は、咄嗟に変つた。その顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の筋肉が、ピク/\動いたかと思ふと、彼は顫へる手で箸を降しながら、それでも声|丈《だ》けは、平静な声を出さうと努めたらしかつたが、変に上ずツてしまつてゐた。
「勝彦! 勝彦勝彦と、貴女《あなた》はよく口にするが、貴女は勝彦を一体何だと思つてゐるのです。もう、一月以上此家にゐるのだから、気が付いたでせう。親の身として、口にするさへ恥かしいが、あれは白痴ですよ。白痴も白痴も、御覧の通《とほり》東西も弁じない白痴ですよ。あゝ云ふ者を三越に連れて行く。それは此の荘田の恥、荘田一家の恥を、世間へ広告して歩くやうなものですよ。貴女も、動機は兎も角、一旦此の家の人となつた以上、かう云ふ馬鹿息子があると云ふことを、広告して下さらなくつてもいゝぢやありませんか。」
 勝平は、結婚して以来、初めて荒々しい言葉を、瑠璃子に対して吐いた。が、象牙の箸を飯椀の中に止めたまゝ、ぢつと聴いてゐた瑠璃子は、眉一つさへ動かさなかつた。勝平の言葉が終ると、彼女は駭いたやうに、眼を丸くしながら、
「まあ! あんなことを。そんな邪推してゐらつしやるの。妾《わたくし》勝彦さんを馬鹿だとか白痴だとか賤しめたことは、一度もありませんわ。あんな無邪気な純な方はありませんわ。それは、少し足りないことは足りないわ。それは、お父様の前でも申し上げねばなりません。でも、あんなに正直な方に、妾《わたくし》初めてお目にかゝりましたのよ。それに妾《わたくし》の云つたことなら、何でもして下さる
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