姉さん、勝彦はこの頃、瑠璃子をさう呼び慣《なら》つてゐた。
「姉さん! 姉さんの所へ!」
勝平は、さう云ひながらも、自分自身地の中へ、入つてしまひたいやうな、浅ましさと恥しさとを感じた。が、それと同時に、韮《にら》を噛むやうな嫉妬が、ホンの僅かではあるが、心の裡に萌して来るのを、何うすることも出来なかつた。が、父のさうした心持を、嘲るやうに、勝彦は又ニタリ/\と愚かな笑ひを、笑ひつゞけてゐる。
「姉さんの所へ何をしに来たのだ。何の用があつて来たのだ。こんなに夜遅く。」
勝平は、心の中の不愉快さを、ぢつと抑へながら、訊く所まで、訊き質さずにはゐられなかつた。
「何も用はない。たゞ顔を見たいのだ。」
勝彦は、平然とそれが普通な当然な事ででもあるやうに云つた。
「顔を見たい!」
勝平は、さう口では云つたものの、眼が眩むやうに思つた。他人は、誰も居合はさない場所ではあつたが、自分の顔を、両手で掩ひ隠したいとさへ思つた。
彼は、もう此の上、勝彦に言葉を掛ける勇気もなかつた。が、今にして、息子のかうした心を、刈り取つて置かないと、どんな恐ろしい事が起るかも知れないと思つた。彼は不快と恥しさとを制しながら云つた。
「おい! 勝彦これから、夜中などに、お姉さんの部屋へなんか来たら、いけないぞ! 二度とこんな事があると、お父様が承知しないぞ!」
さう云ひながら、勝平は、わが子を、恐ろしい眼で睨んだ。が、子はケロリとして云つた。
「だつて、お姉さまは、来てもかまはない! と云つたよ。」勝平は、頭からグワンと殴られたやうに思つた。
「来てもかまはない! 何時、そんな事を云つた? 何時そんなことを云つた?」
勝平は、思はず平常《ふだん》の大声を出してしまつた。
「何時つて、何時でも云つてゐる。部屋の前になら、何時まで立つてゐてもいゝつて、番兵になつて呉れるのならいゝつて!」
「ぢや、お前は今夜だけぢやないのか。馬鹿な奴め! 馬鹿な奴め!」
さう云ひながらも、勝平は子に対して、可なり激しい嫉妬を懐かずにはゐられなかつた。
それと同時に、瑠璃子に対しても、恨《うらみ》に似た烈しい感情を持たずにはゐられなかつた。
「そんな事を姉さんが云つた! 馬鹿な! 瑠璃子に訊いて見よう。」
彼は、息子を押し退けながら、その背後の扉《ドア》を、右の手で開けようとした。が、それは釘付けにでもされたやうに、ピタリとして、少しも動かなかつた。彼は声を出して、叫ばうとした。
その途端に、ガタリと扉《ドア》が開く音がした。が、開いたのはその扉《ドア》ではなくして、美奈子の寝室の扉《ドア》であつた。
純白の寝衣《ねまき》を付けた少女はまろぶやうに、父の傍に走り寄つた。
「お父様! 何と云ふことでございます。何も云はないで、お休みなさいませ。お願ひでございます。お姉様にこんなところを見せては親子の恥ではございませんか。」
美奈子の心からの叫びに、打たれたやうに、勝平は黙つてしまつた。
勝彦は、相変らず、ニヤリ/\と妹の顔を見て笑つてゐた。
丁度此の時、扉《ドア》の彼方の寝台の上に、夢を破られた女は、親子の間の浅ましい葛藤を、聞くともなく耳にすると、其美しい顔に、凄い微笑を浮べると、雪のやうな羽蒲団を、又再び深々と、被つた。
五
自分の寝室へ帰つて来てからも、勝平は悶々として、眠られぬ一夜を過してしまつた。恋する者の心が、競争者の出現に依つて、焦り出すやうに、勝平の心も、今迄の落着、冷静、剛愎の凡てを無くしてしまつた。競争者、それが何と云ふ堪らない競争者であらう。それが自分の肉親の子である。肉親の父と子が、一人の女を廻つて争つてゐる。親が女の許へ忍ぶと子が先廻りをしてゐる。それは、勝平のやうな金の外には、物質の外には、何物をも認めないやうな堕落した人格者に取つても堪らないほどあさましいことだつた。
もし、勝彦が普通の頭脳があり、道義の何物かを知つてゐれば、罵り恥かしめて、反省させることも容易なことであるかも知れない。(尤も、勝平に自分の息子の不道徳を責め得る資格があるか何うかは疑問であつた。)が、勝彦は盲目的な本能と烈しい慾望の外は、何も持つてゐない男である。相手が父の妻であらうが、何であらうが、たゞ美しい女としか映らない男である。それに人並外れた強力《がうりき》を持つてゐる彼は、どんな乱暴をするかも分らなかつた。
その上に、勝平は自分の失言に対する苦い記憶があつた。彼は、一時瑠璃子を勝彦の妻にと思つたとき、その事を冗談のやうに勝彦に、云ひ聴かせたことがある。何事をも、直ぐ忘れてしまふ勝彦ではあつたが、事柄が事柄であつた丈に、その愚な頭の何処かにこびり付かせてゐるかも知れない。さう考へると、勝平の頭は、愈《いよ/\》重苦しく濁つて
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