してから、容体が急変してしまつたやうでございますの。妾かうしてはをられませんわ。ねえ! 一寸帰つて来ましてもようございませう。お願ひでございますわ。ねえ貴方!」
 瑠璃子は、涙に濡れた頬に、淋しい哀願の微笑を湛へた。
「あゝいゝとも、いゝとも。お父様の大事には代へられない。直ぐ自動車で行つて、しつかり介抱して上げるのだ。」
「さう言つて下さると、妾《わたくし》本当に嬉しうございますわ。」
 さう云ひながら、瑠璃子は勝平に近づいて、肥つた胸に、その美しい顔を埋めるやうな容子をした。勝平は、心の底から感激してしまつた。
「ゆつくりと行つておいで、向うへ行つたら、電話で容体を知らして呉れるのだよ。」
「直ぐお知らせしますわ。でも、此方から訊ねて下さると困りますのよ。父は、荘田へは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申してゐるさうでございますから。」
「うむよし/\。ぢや、よく介抱して上げるのだよ。出来る丈《だけ》の手当をして上げるのだよ。」
 自動車の用意は、直ぐ整つた。
「容体がよろしかつたら、今晩中に帰つて参りますわ。悪かつたら、明日になりましても御免あそばしませ。」
 瑠璃子は、自動車の窓から、親しさうに勝平を見返つた。
「もう遅いから、今宵は帰つて来なくつてもいゝよ。明日は、俺《わし》が容子を見に行つて上げるから。」
 勝平は、もういつの間にか、親切な溺愛する夫になり切つてしまつてゐた。
「さう。それは有難うございますわ。」
 彼女は、爽かな声を残しながら、戸外の闇に滑り入つた。が、自動車が英国大使館前の桜並樹の樹下闇を縫うてゐる時だつた。彼女の面《おもて》には、父の危篤を憂ふるやうな表情は、痕も止めてゐなかつた。人を思ふ通《とほり》に、弄んだ妖女《ウヰッチ》の顔に見るやうな、必死な薄笑ひが、その高貴な面《おもて》に宿つてゐた。


 護りの騎士

        一

 名ばかりの妻、これは瑠璃子が最初考へてゐたやうに、生易しいことではなかつた。彼女は、自分の操を守るために、あらゆる手段と謀計とを廻《めぐ》らさねばならなかつた。
 結婚後暫らくは、父の容体を口実に、瑠璃子は荘田の家に帰つて行かなかつた。勝平は毎日のやうに、瑠璃子を訪れた。日に依つては、午前午後の二回に、此の花嫁の顔を見ねば気が済まぬらしかつた。
 彼は訪問の度毎に、瑠璃子の歓心を買ふために、高価な贈物を用意することを、忘れなかつた。
 それが、ある時は金剛石《ダイヤ》入りの指輪だつた。ある時は、白金《プラチナ》の腕時計だつた。ある時は、真珠の頸飾だつた。瑠璃子は、さうした贈物を、子供が玩具を貰ふときのやうに、無邪気に何の感謝なしに受取つた。
 が、父の容体を口実に、いつまでも、実家に止まることは、許されなかつた。それは、事情が許さないばかりでなく、彼女の自尊心が許さなかつた。敵を避けてゐることが、勝気な彼女に心苦しかつた。もつと、身体を危険に晒して勇ましく戦はなければならぬと思つた。形式的にでも、結婚した以上、形の上|丈《だけ》では飽くまでも、妻らしくしなければならないと思つた。敵の卑怯に報いるに卑怯を以てしてはならない。此方は、飽くまでも、正々堂々と戦つて勝たねばならない。さう思ひながら、彼女は勝平が迎ひの自動車に同乗した。
 久しぶりに、瑠璃子と同乗した嬉しさに、勝平は訳もなく笑ひ崩れながら、
「あはゝゝゝゝ。そんなに、実家《おさと》を恋しがらなくてもいゝよ。親一人子一人のお父様に別れるのは淋しいだらう。が、何も心配することはないよ。俺《わし》を恐がらなくつてもいゝよ。俺《わし》だつて、こんな顔をしてゐるが、お前さんを取つて喰はうと云ふのぢやないよ。娘! さうだ、美奈子に新しい姉が出来たと思つて、可愛がつて上げようと思ふのだ。あはゝゝゝゝ。」と、勝平は何《ど》うかして、瑠璃子の警戒を解かうとして、心にもないことを云つた。
 勝平の言葉を聴くと、今迄捗々しい返事もしなかつた瑠璃子は、甦へつたやうに、快活な調子で云つた。
「おほゝゝ、ほんたうに、娘にして下さるの、妾《わたくし》のお父様になつて下さるの! 妾《わたくし》本当にさうお願ひしたいのよ。ほんたうのお父様になつていたゞきたいのよ。」
 さう云ひながら、彼女はこぼるゝやうな嬌羞を、そのしなやか[#「しなやか」に傍点]な身体一面に湛へた。
「あゝ、いゝとも、いゝとも。」勝平は、人の好い本当の父親のやうに肯いて見た。
「ほゝゝゝ。それは嬉しうございますわ、本当に、妾《わたくし》を娘にして下さいませ。それも、ほんの少しの間ですの。お約束しますわ。半年、本当に半年でいゝのよ。でも、さうぢやございませんか。妾《わたくし》、まだ年弱の十八でございませう。学校を出てから、ま
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