でございますの。」
「あゝマッチ! マッチなら、幾何《いくら》でもありますよ。」彼は、さう云ひながら、身を反らして、其処の炉棚《マンテルピース》の上から、マッチの小箱を取つて、瑠璃子の前へ置いた。
「マッチで、何をするのです。」勝平は不安らしく訊ねた。
 瑠璃子は、その問を無視したやうに、黙つて椅子から立ち上ると、鉄盤で掩うてあるストーヴの前に先刻三度目に着替へた江戸紫の金紗縮緬の袖を気にしながら、蹲まつた。
「貴君《あなた》、瓦斯《ガス》が出ますかしら。」彼女は、其処で突然勝平を、見上げながら、馴々しげな微笑を浴びせた。
 初めて、貴君《あなた》と呼ばれた嬉しさに、勝平は又相好を崩しながら、
「出るとも、出るとも。瓦斯《ガス》は止めてはない筈ですよ。」
 勝平が、さう答へ了らない裡に、瑠璃子の華奢な白い手の中に燐寸《マッチ》は燃えて、迸り始めた瓦斯《ガス》に、軽い爆音を立てゝ、移つてゐた。
 瑠璃子は、その火影に白い顔をほてらせて、暫らく立つてゐたが、ふと身体を飜すと、卓の上にあつた証書を、軽く無造作に、薪をでも投ぐるやうに、漸く燃え盛りかけた火の中に投じてしまつた。
 呆気に取られてゐる勝平を、嫣然と振り向きながら、瑠璃子は云つた。
「水に流すと云ふことがございますね。妾《わたくし》達は、此の証文を火で焼いたやうに、これまでのいろいろな感情の行き違ひを、火に焼いてしまはうと思ひますの……ほゝゝゝ、火に焼く! その方がよろしうございますわ。」
「あゝさう/\、火に焼く、さうだ、後へ何も残さないと云ふことだな。そりや結構だ。今までの事は、スツカリ無いものにして、お互に信頼し愛し合つて行く。貴女《あなた》が、その気でゐて呉れゝば、こんな嬉しいことはない。」
 さう云ひながら、勝平は瑠璃子に最初の接吻をでも与へようとするやうに、その眸を異常に、輝かしながら、彼女の傍へ近よつて来た。
 さう云ふ相手の気勢を見ると、瑠璃子は何気ないやうに、元の椅子に帰りながら、端然たる様子に帰つてしまつた。
 その時に、扉《ドア》が開いた。
「彼方《あちら》の御用意が出来ましたから。」
 女中は、淑《しと》やかにさう云つた。
 絶体絶命の時が迫つて来たのだ。
「ぢや、瑠璃さん! 彼方《あちら》へ行きませう。古風に盃事《さかづきごと》をやるさうですから、はゝゝゝゝゝ。」
 勝平が、卑しい肉に飢ゑた獣のやうに笑つたとき、遉《さすが》に瑠璃子の顔は蒼ざめた。
 が、彼女の態度は少しも乱れなかつた。
「あの、一寸電話をかけたいと思ひますの。父のその後の容体が気になりますから。」
 それは、此の場合突然ではあるが、尤もな希望だつた。

        七

「電話なら、女中にかけさせるがいゝ。おい唐沢さんへ……」
 と、勝平が早くも、女中に命じようとするのを、瑠璃子は制した。
「いゝえ! 妾《わたくし》が自身で掛けたいと思ひますの。」
「自身で、うむ、それなら、其処に卓上電話がある。」
 と、云ひながら、勝平は瑠璃子の背後を指し示した。
 いかにも、今迄気が付かなかつたが、其処の小さい桃花心木《マホガニイ》の卓の上に、卓上電話が置かれてゐた。
 瑠璃子は、淑《しと》やかに椅子から、身を起したとき、彼女の眉宇の間には、凄じい決心の色が、アリアリと浮んでゐた。
「あのう。番町の二八九一番!」
 瑠璃子は、送話器にその紅の色の美しい唇を、間近く寄せながら、低く呟くやうに言つた。
「番町の二八九一番!」
 さう繰り返しながら、送話器を持つてゐる瑠璃子の白い手は、かすかに/\顫へてゐた。彼女は暫くの間、耳を傾けながら待つてゐた。やつと相手が出たやうだつた。
「あゝ唐沢ですか。妾《わたくし》瑠璃子なのよ。貴女《あなた》は婆や。」
 相手の言葉に聞き入るやうに、彼女は受話器にぢつと、耳を押し付けた。
「さう。あなたの方から、電話を掛けるところだつたの。それは、丁度よかつたのね。それでお父様の御容体は。」
 さう云ひ捨てると、彼女は又ぢつと聞き入つた。
「さう!……それで……入沢さんが、入らしつたの!……それで、なるほど……」
 彼女は、短い言葉で受け答をしながらも、その白い面《おもて》は、だん/\深い憂慮に包まれて行つた。
「えい! 重体! 今夜中が……もつと、ハツキリと言つて下さい! 聞えないから。なに、なに、お父様は帰つて来てはいけないつて! でもお医者は何と仰しやるの? えい! 呼んだ方がいゝつて! 妾《わたくし》! 何《ど》うしようかしら。あゝあゝ。」
 彼女は、もうスツカリ取り擾《みだ》してしまつたやうに、身を悶えた。
「何《ど》うしたのだ。何うしたのだ。」
 勝平は、遉に色を変へながら、瑠璃子の傍に、近づいた。
「あのう、お父様が、宅の玄関で二度目の卒倒を致しま
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