だ半年にしかなりませんのですもの。それに、今度の話でございませう、それに、いろ/\な事件で、興奮して、まだその興奮が続いてゐるのでございませう。結婚生活に対する何の準備も出来なかつたのでございますもの。貴君の本当の妻になるのには、もう少し心の準備が欲しいと思ひますの。貴君に対する愛情と信頼とを、もつと心の中で、準備したいと思ひますの。だから、暫らくの間、本当に美奈子さんの姉にして置いて下さいませ。『源氏物語』に、末摘花と云ふのがございませう。あれでございますの。」
 さう云ひながら、瑠璃子は嫣然と笑つた。勝平は、妖術にでもかゝつたやうに、ぼんやりと相手の美しい唇を見詰めてゐた。瑠璃子は相手を人とも思はないやうに傍若無人だつた。
「ねえ! お父様! 妾《わたくし》の可愛いお父様! さうして下さいませ。」
 さう云ひながら、彼女はそのスラリとした身体を、勝平にしなだれるやうに、寄せかけながら、その白い手を、勝平の膝の上に置いて静《しづか》に軽く叩いた。
 瑠璃子の処女の如く慎しく娼婦の如く大胆な媚態に、心を奪はれてしまつた勝平は、自分の答が何《ど》う云ふことを約束してゐるかも考へずに答へた。
「あゝいゝとも、いゝとも。」

        二

 勝平は心の裡で思つた。どうせ籠の中に入れた鳥である。その中には、自分の強い男性としての力で征服して見せる。男性の強い腕の力には、凡ての女性は、何時の間にか、掴み潰されてゐるのだ。彼女も、しばらくの間、自分の掌中で、小鳥らしい自由を楽しむがいゝ。その裡に、男性の腕の力がどんなに信頼すべきかが、だん/\分つて来るだらう。
 勝平はさうした余裕のある心持で、瑠璃子の請を容れた。
 が、それが勝平の違算であつたことが、直ぐ判つた。十日経ち二十日経つ裡に、瑠璃子の美しさは勝平の心を、日に夜についで悩した。若い新鮮な女性の肉体から出る香が勝平の旺盛な肉体の、あらゆる感覚を刺戟せずにはゐなかつた。
 その夜も、勝平は若い妻を、帝劇に伴つた。彼はボックスの中に瑠璃子と並んで、席を占めながら眼は舞台の方から、しば/\帰つて来て、愛妻の白い美しい襟足から、そのほつそりとした撫肩を伝うて、膝の上に、慎しやかに置かれた手や、その手を載せてゐるふくよかな、両膝を、貪るやうに見詰めてゐた。彼は、かうして妻と並んでゐると、身も心も溶けてしまふやうな陶酔を感じた。さうした陶酔の醒め際に、彼の烈しい情火が、ムラ/\と彼の身体全体を、嵐のやうに包むのだつた。
 瑠璃子は、勝平のさうした悩みなどを、少しも気が付かないやうに、雲雀《ひばり》のやうに快活だつた。彼女は、勝平との感情の経緯を、もうスツカリ忘れてしまつたやうに、ほんたうの娘にでも、なりきつたやうに、勝平に甘えるやうに纏はつてゐた。
「おい瑠璃さん。もう、お父様ごつこも大抵にしてよさうぢやないか、貴女《あなた》も、少しは私が判つただらう。はゝゝゝゝ。約束の半年を一月とか二月とかに、縮めて貰へないものかねえ!」
 勝平は、その夜、自動車での帰途、冗談のやうに、妻の柔かい肩を軽く叩きながら、囁いた。
「まあ! 貴君《あなた》も、性急《せつかち》ですのねえ。妾《わたくし》達には約婚時代といふものが、なかつたのですもの。もつと、かうして楽しみたいと思ひますもの。何かが来ると云ふことの方が、何かが来たと云ふことよりも、どんなに楽しいか。それに妾《わたくし》本当はもつと処女でゐたいのよ。ねえ、いいでせう。妾《わたくし》のわが儘を、許して下さつてもいゝでせう!」
 さう云ふ言葉と容子とには、溢れるやうな媚びがあつた。さうした言葉を、聴いてゐると、勝平は、タヂ/\となつてしまつて、一言でも逆ふことは出来なかつた。
 が、その夜、勝平は自分一人寝室に入つてからも、若い妻のすべてが、彼の眼にも、鼻にも、耳にもこびり付いて離れなかつた。眼の中には、彼女の柔い白い肉体が、人魚のやうに、艶めかしい媚態を作つて、何時までも何時までも、浮んでゐた。鼻には、彼女の肉体の持つてゐる芳香が、ほのぼのと何時までも、漂つてゐた。耳には、さうだ! 彼女の快活な湿りのある声や、機智に富んだ言葉などが、何時までも何時までも消えなかつた。
 彼は、さうした妄想を去つて、何うかして、眠りを得ようとした。が、彼が努力すれば努力するほど、眼も耳も冴えてしまつた。おしまひには、見上げて居る天井に、幾つも/\妻の顔が、現れて、媚びのある微笑を送つた。
『彼女は、たゞ恥かしがつてゐるのだ。処女としての恥かしさに過ぎないのだ。それは、此方《こちら》から取り去つてやればそれでいゝのだ!』
 彼は、さう思ひ出すと、一刻も自分の寝台にぢつと、身体を落ち着けてゐることが出来なかつた。子供らしい処女らしい恥らひを、その儘に受け入れてゐた自
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