婦の前途を祝うて御乾杯を願ひます。」
 公爵は、さう云ひながら、そのなみ/\と、つがれた三鞭酒《シャンペンしゆ》の盃を、自分と相対して立つてゐる逓相の近藤男の盃に、カチリと触れさせた。
 それと同時に、公爵の音頭で、荘田唐沢両家の万歳が、一斉に三唱された。
 丁度その時であつた。その祝辞を受くるべく立ち上らうとした唐沢男爵の顔が、急に蒼ざめたかと思ふと、ヒヨロ/\とその長身の身体が後に二三歩よろめいたまゝ、枯木の倒れるやうに、力なく床の上に崩れ落ちた。

        四

 唐沢男爵の突然な卒倒は、晴の盛宴を滅茶苦茶にしてしまつた。遉《さすが》に、心の利いた給仕人は、手早く一室に担ぎ込んだが、列席の人々の動揺は、どうともすることが出来なかつた。瑠璃子は、花嫁である身分も忘れて、父の傍に馳け付けたまゝ、晴着の振袖を気にしながら、懸命に介抱した。
 給仕人が、必死になつて最後のコーヒを運ぶのを待ち兼ねて、仲人の杉野子爵は立つて来客達に、列席の労を謝した。それを機会に、今まで浮腰になつてゐた来客は、潮の引くやうに、一時に流れ出てしまつて、煌々たる電燈の光の流れてゐる大広間には、勝平を初めとし四五人の人々が寂しく取り残された丈だつた。
 瑠璃子の父は、幸《さひはひ》に軽い脳貧血であつた。呼びにやつた医者が来ない前に、もう、常態に復してゐた。が、彼は黙々として自分を取り囲んでゐる杉野や勝平には、一言も言葉をかけなかつた。
 父が、用意された自動車に、やつと恢復した身体を乗せて、今宵からは、最愛の娘と離れて、たゞ一人住むべき家へ帰つて行く後姿を見ると、鉄のやうに冷くつぼんでゐる瑠璃子の心も、底から掻き廻はされるやうな痛みを感ぜずにはゐられなかつた。
 瑠璃子は、父の自動車に身体をピツタリと附けながら、小声で云つた。
「お父様暫らく御辛抱して下さいませ。直きにお父様の許へ帰つて行きます。どうぞ、妾《わたくし》を信じて待つてゐて下さいませ。」
 遉《さすが》に彼女の眼にも、湯のやうな涙が、ほたほたと溢れた。
 父は、瑠璃子の言葉を聴くと大きく肯きながら、
「お前の決心を忘れるな。お父さんが、今宵受けた恥を忘れるな。」
 父が低く然し、力強くかう呟いた時、自動車は軽く滑り出してゐた。
 父を乗せた自動車が、出で去つた後の車寄に附けられた自動車は、荘田がつい此間、伊太利《イタリー》から求めた華麗なフィヤット型の大自動車であつた。新郎新婦を、その幾久しき合衾《がふきん》の床に送るべき目出度き乗物だつた。
 瑠璃子は、夫――それに違ひはなかつた――に招かるゝまゝ、相並んで腰を降した、が、その美しい唇は彫像のそれのやうに、堅く/\結ばれてゐた。
 勝平は、何うにかして、瑠璃子と言葉を交へたかつた。彼は、瑠璃子の美しさがしみ/″\と、感ぜられゝば感ぜられる丈、たゞ黙つて、並んでゐることが、愈《いよ/\》苦痛になり出した。
 彼は、瑠璃子の顔色を窺ひながら、オヅ/\口を開いた。
「大変沈んでをられるやうぢやが、さう心配せいでもようござんすよ。俺《わし》だつて貴女《あなた》が思つてゐるほど、無情な人間ぢやありません。貴女のお父様を、苛めて済まんと思つてゐるのです。罪滅ぼしに、出来る丈《だけ》のことはしようと思つてゐるのです。貴女も、俺を敵《かたき》のやうに思はんでな。これも縁ぢやからな。」
 勝平は、誰に対しても、使つたことのないやうな、丁寧な訛のある言葉で、哀願するやうな口調でしみ/″\と話し出した。が、瑠璃子は、黙々として言葉を出さなかつた。二人の間に重苦しい沈黙が暫らく続いた。
「実は恥を云はねばならないのだが、今年の春、俺《わし》の家の園遊会で、貴女を見てから、年甲斐もなく、はゝゝゝゝ。それで、つい、心にもなく貴女のお父様までも、苦しめて、どうも何とも済まないことをしました。」
 勝平は、瑠璃子の心を解かうとして心にもない嘘を云ひながら、大きく頭を下げて見せた。
 その刹那に、美しい瑠璃子の顔に、皮肉な微笑が動いたかと思ふと、彼女の容子は、一瞬の裡に変つてゐた。
「そんなに云つて下さると妾《わたくし》の方が却つて痛み入りますわ。妾《わたくし》のやうな者を、それほどまでして、望んで下さつたかと思ふと、ほゝゝゝゝ。」
 と、車内の薄暗の裡でもハツキリと判るほど、瑠璃子は勝平の方を向いて、嫣然《えんぜん》と笑つて見せた。勝平は、その一笑を投げられると、魂を奪はれた人間のやうに、フラ/\としてしまつた。

        五

 瑠璃子の嫣然たる微笑を浴びると、勝平は三鞭酒《シャンペンしゆ》の酔が、だん/\廻つて来たその巨きい顔の相好を、たわいもなく崩してしまひながら、
「あゝ、さうでがすか。貴女の心持はさうですか、それを知らんもんですから、心配したわい
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