い! 繃帯を持つて来い! なければ白木綿だ! 近藤さんを呼べ! さうだ! 自動車を迎へにやれ! ゐなかつたら、誰でもいゝ外科の博士を。さうだ! その前に、誰でもいゝから、近所の医者を呼んで来い! 早く、早く、早くだ!」
狼狽して、前後左右にたゞウロ/\する、召使の男女を荘田は声を枯して叱咤した。彼はさう云ひながらも、右の掌で、娘の傷口を力一杯押へてゐるのだつた。
直也は、自分の放つた弾丸が、思ひがけない結果を生んだのを見ながら、彼は魂を奪はれた人間のやうに、茫然として立つてゐた。色は土の如く蒼く、眼は死魚のそれのやうに光を失つた。彼はまだ短銃《ピストル》を握つたまゝ、突つ立つてゐた。直也の父も、木下も、此の犯人の手から、短銃《ピストル》を奪ひ取ることさへ忘れて居た。殊に、子爵の顔は子のそれよりも、血の気がなかつた。彼は自分の罪が、ヒシ/\と胸に徹《こた》へて来るのを感じた。自分の野卑な、狡猾な行為が、子の上に覿面《てきめん》に報いて来たことが、恐ろしかつた。彼は、子の短慮と暴行とを叱すべき言葉も、権威も持つてゐなかつた。彼の身体を支へてゐる足は、絶えずわな/\と顫へた。
荘田は、娘の肩口を繃帯で、幾重にもクルクルと、捲いてしまふと、やつと小康を得たやうに、室内に帰つて来た。その巨きい顔は殺気を帯びて物凄い相を示した。
「お蔭で傷は浅いです。可哀さうに、あれは大層親思ひですから、あんな飛沫《とばしり》を喰ふのです。」
彼は、氷のやうな薄笑ひを含んで、直也の顔をマジ/\と見詰めながら云つた。赤手にして一千万円を越ゆる暴富を、二三年の裡に、攫取した面魂《つらたましひ》が躍如として、その顔に動いた。
「いや、私は暴に報いるに、暴を以つてしません。たゞ、国の公正なる法律に、あなたの処分を委せる丈です。杉野さん! お気の毒ですが、御子息は直ぐ、警察の方へお引き渡ししますから、そのおつもりでゐて下さい。おい警視庁の刑事課へ電話をかけるのだ。そして、殺人未遂の犯人があるから、直ぐ来て呉れと。いゝか。」
荘田は、冷然として、鉄の如く堅く冷かに、商品の註文をでもするやうな口調で、小間使に命じた。
小間使の方が恐ろしい命令に、躊躇して、ウロ/\してゐる時だつた。仮の繃帯が了つて、自分の部屋へ運ばれようとしてゐた美奈子が、父の烈しい言葉を、そのかすかな聴覚で、聞きわけたのであらう。彼女は、ふり搾るやうな声を立てた。
「お父様! お願ひでございます。何《ど》うぞ、内済にして下さいませ! 妾《わたくし》が、短銃《ピストル》で打たれましたなどは、外聞が悪うございますわ。どうぞ! どうぞ!」
彼女は、哀願するやうに、力一杯の声を出した。
荘田は、娘からの思ひがけない抗議に、狼狽《うろた》へながら、尚も頑然として云つた。
「お前さんの知つたことぢやない。お前さんは、そんなことは、一切考へないで、気を落着けてゐるのだ。いゝか。いゝか。」
「いゝえ! いゝえ! 妾《わたくし》を打つたために、あの方が牢へ行かれるやうなことが、ございましたら、妾《わたくし》は生きては、をりません。お父様! どうぞ、どうぞ、内済にして下さいませ。」
美奈子は、息を切らしながら、とぎれ/\に云つた。傲岸不屈な荘田も、遉《さすが》に黙つてしまつた。
直也の二つの眼には、あつい湯のやうな涙が、湧くやうに溢れてゐた。初めて、顔を見たばかりの少女の、厚い情《なさけ》に対する感激の涙だつた。
心の武装
一
記憶のよい人々は、或は覚えてゐるかも知れない。大正六年の九月の末に、東京大阪の各新聞紙が筆を揃へて報道した唐沢男爵の愛嬢瑠璃子の結婚を。それは近年にない大評判《センセイショナル》な結婚であつた。
此の結婚が、一世の人心を湧かし、姦《かまびす》しい世評を生んだ第一の原因は、その新郎新婦の年齢が恐ろしいほど隔つてゐた為であつた。二三の新聞は、第二の小森幸子事件であると称して、世道人心に及ぼす悪影響を嘆いた。小森幸子事件とは、ついその六七年前、時の宮内大臣田中伯が、還暦を過ぎた老体を以て、まだ二十《はたち》を過ぎたばかりの処女――爵位と権勢に憧るゝ虚栄の女と、婚約をした為に一世の烈しい指弾と抗議とを招いた事件だつた。
無論、新郎の荘田勝平は、当時の田中伯よりも若かつた。が、それと同時に、新婦の唐沢瑠璃子は小森幸子などとは比較にならないほど美しく、比較にならないほど名門の娘であり、比較にならないほど若かつた。
新聞紙に並べられた新郎新婦の写真を見た者は、男性も女性も、等しく眉を顰めた。が、此の結婚が姦《かまびす》しい世評を産んだ原因は、たゞ新郎新婦の年齢の相違ばかりではなかつた。もう一つの原因は、成金、荘田勝平が、唐沢家の娘を金で買つたと云ふ噂だつた
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