ではありませんか。貴君こそ、自分の不明を恥ぢて、私の前でいつかの暴言を謝しなさい! 唐沢のお嬢さんは、もう此の通り、ちやんと前非を悔いてゐる。御覧なさい! 此の手紙を!」
 さう云ひながら、荘田は得々として、瑠璃子の手紙を直也に突き付けたとき、彼の心は火のやうな憤《いきどほり》と、恋人を奪はれた墨のやうな恨《うらみ》とで、狂つてしまつた。

        七

「御覧なさい! 私は、自分の息子の嫁に、するために、お嬢さまを所望したのだが、お嬢さまの方から、却つて私の妻になりたいと望んでをられる。有力な男性的な実業家の妻として、社会的にも活動して見たい! かう書いてある。あはゝゝ[#「あはゝゝ」は底本では「はあゝゝ」]。何《ど》うです! お嬢様にも、ちやんと私の価値が判つたと見える。金の力が、どんなに偉大なものかが判つたと見える! あはゝゝ。」
 荘田は、得々とその大きな鼻を、うごめかしながら、言葉を切つた。
 直也は、湧き立つばかりの憤怒と、嵐のやうな嫉妬に、自分を忘れてしまつた。彼は瑠璃子の手紙を見たときに、荘田と媒介人たる自分の父とに、面と向つて、その不正と不倫とを罵り、少しでも残つてゐる荘田の良心を、呼び覚して、不当な暴虐な計画を思ひ止まらせようと決心したのだが、実際に会つて見ると、自分のさうした考へが、獣に道徳を教へるのと同じであることを知つた。そればかりでなく、荘田の逆襲的嘲弄に、直也自身まで、獣のやうに荒んでしまつた。彼の手は、いつの間にか知らず識らず、ポケットの中に入れて来た拳銃《ピストル》にかかつてゐた。その拳銃《ピストル》は、今年の夏、彼が日本アルプスの乗鞍ヶ岳から薬師ヶ岳へ縦走したときに、護身用として持つて行つて以来、つい机の引出しに入れて置いた。彼は激昂して家を出るとき、ふと此の拳銃《ピストル》の事が、頭に浮んだ。荘田の家へ、単身乗り込んで行く以上、召使や運転手や下男などの多数から、どんな暴力的な侮辱を受けるかも知れない。さうした場合の用意に持つて来たのだが、然し今になつて見ると、それが直也に、もつと血腥い決心の動機となつてゐた。
 暴に報ゆるには暴を以てせよ。相手が金を背景として、暴を用ゐるなら、こちらは死を背景とした暴を用ゐてやれ。憤怒と嫉妬とに狂つた直也は、さう考へてゐた。さうした考へが浮ぶと共に、直也の顔には、死そのもののやうな決死の相が浮んでゐた。
「貴君《あなた》の、この不正な不当な結婚を、中止なさい。中止すると誓ひなさい! でなければ……でなければ……」さう云つたまゝ、直也の言葉も遉《さすが》に後が続かなかつた[#「続かなかつた」は底本では「続かなかた」]。
「でなければ、何うすると云ふのです。あはゝゝゝゝゝ。貴君《あなた》は、この荘田を脅迫するのですな。こりや面白い! 中止しなければ、何うすると云ふのです。」
 直也は、無我夢中だつた。彼は、自分も父も母も恋人も、国の法律も、何もかも忘れてしまつた。ただ眼前数尺の所にある、大きい赤ら顔を、何うにでも叩き潰したかつた。
「中止しなければ……かうするのです。」
 さう叫んだ刹那、彼の右の手は、鉄火の如くポケットを放れ、水平に突き出されてゐた。その手先には、白い光沢のある金属が鈍い光を放つてゐた。
「何! 何をするのだ。」と、荘田が、悲鳴とも怒声とも付かぬ声を挙げて、扉《ドア》の方へタジ/\と二三歩後ずさりした時だつた。
 直也の父は、狂気のやうに息子の右の腕に飛び付いた。
「直也! 何をするのだ! 馬鹿な。」
 その声は、泣くやうな叱るやうな悲鳴に近い声だつた。
 父の手が、子の右の手に触れた刹那だつた。轟然たる響は、室内の人々の耳を劈《つんざ》いた。
 その響きに応ずるやうに、荘田も木下も子爵も「アツ。」と、叫んだ。それと同時に、どう[#「どう」に傍点]と誰かが崩れるやうに倒れる音がした。帛を裂くやうな悲鳴が、それに続いて起つた。その悲鳴は、荘田の口から洩るゝやうな、太いあさましい悲鳴とは違つてゐた。

        八

 父の手が直也の手に触れた丁度その刹那に、発せられた弾丸は、皮肉にも二十貫に近い荘田の巨躯を避けて、わづかに開かれた扉《ドア》の隙から、主客の烈しい口論に、父の安否を気遣つて、そつと室内をのぞき込んでゐた荘田の娘美奈子の、かよわい肉体を貫ぬいたのであつた。
 荘田は娘の悲鳴を聞くと、自分の身の危さをも忘れて飛び付くやうに、娘の身体に掩ひかゝつた。
 美奈子は、二三度起き上らうとするやうに、身体を悶えた後に、ぐつたりと身体を、青い絨毯の上に横へた。絶え入るやうな悲鳴が続いて、明石縮らしい単衣《ひとへ》の肩の辺に出来た赤黒い汚点《しみ》が、見る見る裡に胸一面に拡がつて行くのだつた。
「美奈子! 気を確《たしか》に持て! お
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