とする瑠璃子が恨めしかつた。心を喰ひ裂くやうな烈しい嫉妬を感じた。が、だん/\読んで行く裡に、唐沢家に対する荘田の迫害の原因が、荘田に対する自分の罵倒であつたことが、マザ/\と分つて来た。瑠璃子を唐沢家から奪はうとするのは、つまり自分の手から奪はうとするのだ。荘田が、自分に対する皮肉な恐ろしい復讐なのだ。意趣返しなのだ。瑠璃子は、復讐と膺懲の手段として、結婚すると云ふ。が、それを自分が漫然と見てゐられるだらうか。かよわい女性が、貞操の危険を冒してまで、戦つてゐる時に、第一の責任者たる自分が、茫然と見てゐられるだらうか。が、そんなことは兎に角直也には、自分の恋人が縦令《たとひ》操は許さないにしても、荘田と――豚のやうに不快な荘田と、形式的にでも夫と呼び妻と呼ぶことが、堪まらなかつた。瑠璃子は、飽くまでも、操を汚さないと云ふが、そんなことは、聡明ではあるにしろ、まだ年の若い彼女の夢想的《ロマンチック》な空想で、縦令《たとひ》彼女の決心が、どんなに堅からうとも、一旦結婚した以上、獣のやうに強い荘田の為に、ムザ/\と蹂み躙られてしまひはせぬか。どんなに強い精神でも、鉄のやうに強い腕には、敵せない時がある。瑠璃子の心が火のやうに烈しく、石のやうに堅くても、羅衣《うすもの》にも堪へないやうな、その優しい肉体は、荘田の強い把握のために、押し潰されてしまひはせぬか。さう考へると、直也の心は、恐ろしい苦悶と焦燥のために、烈しく動乱した。が、それよりも、自分の父が自分の恋人を奪ふ悪魔の手下であることを知ると、彼は憤怒と恥辱とのために、逆上した。
彼は瑠璃子の手紙を握りながら、父の部屋へかけ込んだ。父の姿は見えないで、女中が座敷を掃除してゐた。
「お父様は何うした。」
彼は女中を叱咤するやうに云つた。
「今しがた、荘田様へ行らつしやいました。」
瑠璃子の承諾の手紙を読むと、鬼の首でも取つたやうに、荘田の所へ馳け付けたのだと思ふと、直也の心は、恐ろしい憤怒のために燃え上つた。
五
美奈子が、小切手帳を持つて来ると、荘田は、傍の小さい卓《デスク》の上にあつた金蒔絵の硯箱を取寄せて不器用な手付で墨を磨りながら、左の手で小切手帳を繰拡げた。
「はゝゝゝゝ、貴方《あなた》にも、お礼をうんと張り込むかな。」彼は、さう得々と哄笑しながら、最初の一葉に、金二万円也と、小学校の四五年生位の悪筆で、その癖溌剌と筆太に書いた。それは無論、支度料として、唐沢家へ送るものらしかつた。
その次ぎの一葉を、木下も杉野も、爛々《らん/\》と眼を、梟《ふくろふ》のやうに光らせて、見詰めてゐた。荘田は、無造作に壱万円也と書き入れると、その次ぎの一葉にも、同じ丈の金額を書き入れた。
「何《ど》うです。これで不足はないぢやらう。はゝゝゝゝ。」と、荘田は肩を揺がせながら笑つた。
食事を与へられた犬のやうに、何の躊躇もなく、二人がその紙片に手を出さうとしてゐる時だつた。荘田の背後《うしろ》の扉《ドア》が、軽く叩かれて、小間使が入つて来て、
「旦那様! あの杉野さんと云ふ方が、御面会です。」と、云つた。
「杉野!」と、荘田は首を傾げながら云つた。「杉野さんなら茲《こゝ》にいらつしやるぢやないか。」
「いゝえ! お若い方でございます。」
「若い方? いくつ位?」と、荘田は訊き返した。
「二十三四の方で、学生の服を着た方です。」
「うゝむ。」と、荘田は一寸考へ込んだが、ふと杉野子爵の方を振向きながら、
「杉野さん! 貴方の御子息ぢやないかね。」と、云つた。
「私の倅、私の倅がお宅へ伺ふことはない。尤も、私にでも用があるのかな。さうぢやありませんか。私に会ひたいと云ふのぢやありませんか。」
子爵は小間使の方を振り向きながら云つた。小間使は首を振つた。
「いゝえ! 御主人にお目にかゝりたいと仰《おつ》しやるのです。」
「あゝ分つた! 杉野さん! 貴君の御子息なら、僕の所へ来る理由が、大にあるのです。殊に今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈服しようと云ふ今の場合、是非とも来なければならない方です。さうだ! 私も会ひたかつた。さうだ! 私も会ひたかつた! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしてゐましたと云つてね。貴君方は、別室で待つていたゞくかね。いや、立会人があつた方が、結局いゝかな。さうだ! 早くお通しするのだ!」
興奮した熊のやうに、荘田は卓《テーブル》に沿うて、二三歩づつ左右に歩きながら、叫んだ。
杉野子爵には、荘田の云つた意味が、十分に判らなかつた。何の用事があつて、自分の息子が、荘田を尋ねて来るのか見当も立たなかつた。が、それは兎も角、自分が荘田から、邪しい金を受け取らうとする現場へ、肉親の子――しかも、その潔白な性格に対しては、親が三目も四目も置いてゐる子
前へ
次へ
全157ページ中55ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング