のだ。俺の手提金庫に小切手帳が入つてゐるから持つて来るやうに。」と命じた。
 良心を悪魔に、売り渡した木下と杉野子爵とは、自分達の良心の代価が、幾何《いくら》になるだらうかと銘々心の裡で、荘田の持つ筆の先に現れる数字を、貪慾に空想しながら、美奈子が小切手帳を持つて、入つて来るのを待つてゐた。
「十八の娘にしては、なか/\達筆だ! 文章も立派なものだ!」
 荘田は、尚飽かず瑠璃子の手紙に、魂を擾されてゐた。
 が、丁度その同じ瞬間に、瑠璃子の手紙に依つて、魂を擾されてゐたのは荘田勝平|丈《だけ》ではなかつた。
 瑠璃子は、杉野子爵に宛てゝ、一通の手紙を書くのと同時に、その息子の杉野直也に対しても、一通の手紙を送つた。杉野子爵に対する手紙は、冷たい微笑と堅い鉄のやうな心とで書いた。直也に送つた手紙は、熱い涙と堅い鉄のやうな心とで書いた。
 荘田勝平が、一方の手紙を読んで、有頂天になつたと同じに、直也は他の一方の手紙を読んで、奈落に突落されたやうに思つた。

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 父を恐ろしい恥辱より救ひ、唐沢一家を滅亡より救ふ道は、これより外にはないのでございます。……
 法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔を懲しめる手段は、これより外にはないのでございます。妾《わたくし》の行動を奇嬌だとお笑ひ下さいますな。芝居気があるとお笑ひ下さいますな。現代に於ては、万能力を持つてゐる金に対抗する道は、これより外にはないのでございます。……名ばかりの妻、さうです、妾《わたくし》はありとあらゆる手段と謀計とで以て、妾《わたくし》の貞操をあの悪魔のために汚《けが》されないやうに努力する積《つもり》です。北海道の牧場では、よく牡牛と羆《ひぐま》とが格闘するさうです。妾《わたくし》と荘田との戦ひもそれと同じです。牡牛が、羆の前足で、搏たれない裡に、その鉄のやうな角を、敵の脾腹へ突き通せば牡牛の勝利です、妾《わたくし》も、自分の操を汚されない裡に、立派にあの男を倒してやりたいと思ひます。
 妾《わたくし》の結婚は、愛の結婚でなくして、憎しみの結婚です。それに続く結婚生活は、絶えざる不断の格闘です。……
 が、どうか妾《わたくし》を信じて下さい。妾《わたくし》には自信があります。半年と経たない裡に精神的にあの男を殺してやる自信があります。
 直也様よ、妾《わたくし》のためにどうか、勝利をお祈り下さい。
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 手紙は、尚続いた。

        四

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 妾《わたくし》は、勝利を確信してゐます。が、それは実質の勝利で、形から云へば、妾《わたくし》は金のために荘田に購はれる女奴隷と、等しいものかも知れません。妾《わたくし》が、自分の操を清浄に保ちながら、荘田を倒し得ても、社会的には妾《わたくし》は、荘田の妻です。何人《なんぴと》が妾《わたくし》の心も身体も処女であることを信じて呉れるでせう。妾《わたくし》は貴君《あなた》丈には、それを信じて戴きたいと思ひます。が、妾《わたくし》にはそれを強ひる権利はありません。
 男性化《マンリファン》と言ふ言葉があります。妾《わたくし》の現在はそれです。妾《わたくし》は女性としての恋を捨て、優しさを捨て慎しやかさを捨てゝ、たゞ復讐と膺懲のために、狂奔する化物のやうな人間にならうとしてゐるのです。顧みると、自分ながら、浅ましく思はずにはゐられません。が、悪魔を倒すのには、悪魔のやうな心と謀計とが必要です。
 貴君を愛し、また貴君から愛されてゐた無垢な少女は、残酷な運命の悪戯から、凡ての女性らしさを、自分から捨ててしまふのです。凡ての女性らしさを、復讐を神に捧げてしまふのです。愛も恋も、慎しやかさも淑《しとやか》さも、その黒髪も白き肌《はだへ》も。
 次ぎのことを申上げるのは、一番厭でございますが、荘田からの最初の申込みを取り継がれた方は、貴君のお父様です。従つて、求婚に対する妾《わたくし》の承諾も、順序として、貴君《あなた》のお父様に、取次いでいたゞかねばなりません。妾《わたくし》は、貴君に対する、この不快な恐ろしい手紙を書いた後に、貴君のお父様宛に、もう一つの、もつと不快な恐ろしい手紙を書かねばなりません。
 それを思ふと、妾《わたくし》の心が暗くなります。が、妾《わたくし》はあくまで強くなるのです。あゝ、悪魔よ! もつと妾《わたくし》の心を荒ませてお呉れ! 妾《わたくし》の心から、最後の優しさと恥しさを奪つておくれ!
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 一句一句鋭い匕首《あひくち》の切先で、抉られるやうに、読み了つた直也は最後の一章に来ると、鉄槌で横ざまに殴り付けられたやうな、恐ろしい打撃を受けた。
 最初は、縦令《たとひ》どんな理由があるにしろ、自分を捨てゝ、荘田に嫁がう
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