「瑠璃さん! あなたは、今夜は何《ど》うかしてゐる。お父様《とうさん》も、ゆつくり考へよう。あなたも、ゆつくりお考へなさい。あなたの考へは、余り突飛だ。そんな馬鹿なことが今時……」
「でも、お父様!」瑠璃子は少しも屈しなかつた。「妾《わたくし》は、毒に報いるのには毒を以てしたいと思ひます。陰謀に報いるには、陰謀を以てしたいと思ひます。相手が悪魔でも恥ぢるやうな陰謀を逞《たくまし》くするのですもの。此方《こつち》だつて、突飛な非常手段で、懲しめてやる必要があると思ひます。現代の社会では万能な金の力に対抗するのには、非常手段に出るより外はありません。妾《わたくし》は、自分の力を信じてゐるのでございます。あんな男一人滅ぼすのには余る位の力を、持つてゐるやうに思ひます。お父様! どうか妾《わたくし》を信じて下さいまし。瑠璃子は、一時の興奮に駆られて無謀なことを致すのではありません。ちやんと成算があるのでございます。」
瑠璃子の興奮は何処までも、続くのだつた。父は黙々として、何も答へなくなつた。父と娘との必死な問答の裡に、幾時間も経つたのであらう、明け易い夏の夜は、ほの/″\と白みかけて居た。
美奈子
一
「はゝゝゝ、唐沢の奴、面喰《めんくら》つてゐるだらう。はゝゝゝ。」
荘田は、籐製の腕椅子の裡で、身体をのけ反るやうにしながら、哄笑した。
「どうも、貴方《あなた》も人間が悪くていけない。あんないゝ方を苛めるなんて、何《ど》うも甚だ宜しくない。貴方が、持つて行けと云つたから、つい持つて行つたものゝ、どうも寝覚が悪くつていけない。私は随分唐沢さんにお世話になつたのですからね。」
木下は、遉《さすが》に烈しい良心の苛責に堪へられないやうに、苦しげに云つた。
「あゝいゝよ。分つてゐるよ。君の苦衷も察してゐるよ。俺《わし》だつて、何も唐沢が憎くつて、やるのぢやあないんだ。つい、意地でね。妙な意地でね。一寸した意地でやり始めたのだが、やり始めると俺《わし》の性質でね、徹底的にやり徹さないと気が済まないのだ。親を苛める気は、少しもないのだ。あの美しい娘に対する色恋からでもないんだ。はゝゝゝゝ、誤解して呉れちや困るよ。はゝゝゝゝゝ。」
荘田は、その赤い大きい顔の相好を崩しながら、思惑が成功した投機師のやうに、得意な哄笑を笑ひ続けた。
「どうだ! 俺が云つた通《とほり》だらう。君は、高潔な人格の唐沢さんは、決してそんな事はしないとか何とか云つて、反対したぢやないか。何うだ! 人間は、金に窮すればどんなことでもするだらう。金に依つて、保護されてゐない人格などは、要するに当にならないのだ。清廉潔白など云ふことも、本当に経済上の保証があつて出来ることだよ。貧乏人の清廉潔白なんか、当になるものか。はゝゝゝゝゝ。」
此の世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることの無いやうに、勝平は得意だつた。
「だが、私は気になります。私は唐沢さんが自殺しやしないかと思つてゐるのです。何うもやりさうですよ。屹度《きつと》やりますよ。」木下は、心からさう信じてゐるやうに、眉をひそめながら云つた。
「うむ! 自殺かね。」遉《さすが》に荘田も、一寸誘はれて眉をひそめたが、直ぐ傲岸な笑ひで打ち消した。
「はゝゝゝ、大丈夫だよ。人間はさう易々とは、死なないよ。いや待つてゐたまへ。今に、泣きを入れに来るよ。なに、先方が泣きを入れさへすれば、さうは苛《いじ》めないよ。もと/\、一寸した意地からやつてゐることだからね。」
「それでも、もしお嬢さんをよこすと云つたら御結婚になりますかね。」
「いや、それだがね、俺《わし》も考へたのだよ。いくら何だと言つても、二十五六も違ふのだらう。世間が五月蠅《うるさい》からね。只でさへ『成金! 成金!』と、いやな眼《まなこ》で見られてゐるんだらう。それだのに、そんな不釣合な結婚でもすると、非難攻撃が、大変だからね。それで、俺《わし》が花婿になることは思ひ止まつたよ。倅の嫁にするのだ。倅の嫁にね。あれとなら、年|丈《だけ》は似合つてゐるからね。その事は先方へも云つて置いたよ。」
「御子息の嫁に!」
さう云つたまゝ、木下は二の句が継げなかつた。荘田の息、勝彦と云ふその息は、二十《はたち》を二つ三つも越してゐながら、子供のやうにたわいもない白痴だつた。白痴に近い男だつた。さうだ! 年|丈《だけ》は似合つてゐる。が、瑠璃子の夫としては、何と云ふ不倫な、不似合な配偶だらう。金のために旧知を売つた木下にさへ、荘田の思ひ上つた暴虐が、不快に面憎く感ぜられた。
「なに、俺《わし》があのお嬢さんと結婚する必要は、少しもないのだ。金の力が、あのお嬢さんを、左右してやればそれでいゝのだよ。金の力が、どんなに大きいかを、あのお嬢さんと、あゝさう/\、
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