に、激昂して、瑠璃子をたしなめるやうに云つた。が、瑠璃子は、ビクともしなかつた。
「お父様! お考へ違ひをなさつては、困ります。お父様の身代りにならうなどと、そんな消極的な動機から、申上げてゐるのではありません。妾《わたくし》は、法律の網を潜るばかりでなく、法律を道具に使つて、善人を陥れようとする悪魔を、法律に代つて、罰してやらうと思ふのです。一家が受けた迫害に、復讐するばかりでなく、社会のために、人間全体のために、法律が罰し得ない悪魔を罰してやらうと思ふのです。お父様の身代りにならうと云ふやうな、そんな小さい考へばかりではありません。」
 瑠璃子は、昂然と現代の烈女と云つてもいゝやうに、美しく勇ましかつた。
「お前の動機は、それでもいゝ。だが、あの男と結婚することが、何《ど》うしてあの男を罰することになるのだ。何うして、一家が受けた迫害を、復讐することになるのだ。」
「結婚は手段です。あの男に対する刑罰と復讐とが、それに続くのです。」瑠璃子は凜然と火花を発するやうに云つた。
「お父様、昔|猶太《ユダヤ》のベトウリヤと云ふ都市が、ホロフェルネスと云ふ恐ろしい敵の猛将に、囲まれた時がありました。ホロフェルネスは、獅子を搏《てうち》にするやうな猛将でした。ベトウリヤの運命は迫りました。破壊と虐殺とが、目前に在りました。その時に、美しい少女が、ベトウリヤ第一の美しい少女が、侍女をたつた一人連れた切りで、羅衣《うすもの》を纏つた美しい姿を、虎のやうなホロフェルネスの陣営に運んだのです。そしてこの少女の、容色に魅せられた敵将を、閨中でたつた一突きに刺し殺したのです。美しい少女は、自分の貞操を犠牲にして、幾万の同胞の命と貞操とを救つたのです。その少女の名こそ、今申し上げたユーヂットなのでございます。」

        八

 瑠璃子の心は、勇ましいロマンチックな火炎で包まれてゐた。牝獅子の乳で育つたと云ふ野蛮人の猛将を、細い腕《かひな》で刺し殺した猶太《ユダヤ》の少女《をとめ》の美しい姿が、勇ましい面影が、蝕画《エッチング》のやうに、彼女の心にこびりついて離れなかつた。少女に仮装して、敵将を倒した日本武尊よりも、本当の女性である丈《だけ》に、それ丈《だ》け勇ましい。命よりも大切な、貞操を犠牲にしてゐる丈《だけ》に、限りなく悲壮であつた。
「妾《わたくし》はユーヂットのやうに、戦つて見たいと思ふのです。」
 二千有余年も昔の、猶太《ユダヤ》の少女の魂が、大正の日本に、甦つて来たやうに、瑠璃子は炎の如く熱狂した。
 が、父は冷静だつた。彼は、熱狂し過ぎてゐる娘を、宥《なだ》めるやうに、言葉静かに説き諭した。
「瑠璃子! お前のやうに、さう熱しては困る。女の一番大事な貞操を、犠牲にするなどと、そんな軽率なことを考へては困る。数万の人の命に代るやうな、大事な場合は、大切な操を犠牲にすることも、立派な正しいことに違ひない。が、あんな獣のやうな卑しい男を、懲すために、お前の一身を犠牲にしては、黄金を土塊《つちくれ》と交換するほど、馬鹿々々しいことぢやないか。」
「だが、お父様!」と、瑠璃子は直ぐ抗弁した。
「相手は、お父様の仰《おつ》しやる通り、取るに足りない男には違ひありません。が、現在の社会組織では人格がどんなに下劣でも、金さへあれば、帝王のやうに強いのです。お父様は、相手を『獣のやうに卑しい男』とお蔑すみになつても、その卑しい男が、金の力で、お父様のやうな方に、こんな迫害を加へ得るのですもの。妾《わたくし》が、戦はなければならぬ相手は荘田勝平と云ふ個人ではありません。荘田勝平と云ふ人間の姿で、現れた現代の社会組織の悪です。金の力で、どんなことでも出来るやうな不正な不当な社会全体です。金さへあれば、何《なん》でも出来ると云つたやうな、その思想です。観念です。妾《わたくし》は、それを破つて見たいと思ふのです。」
 瑠璃子は、処女らしい羞恥心を、興奮のために、全く振り捨てゝしまつたやうに、叫びつゞけた。
 父は、子の烈しい勢を、持ち扱つたやうに、黙つて聞いてゐた。
「それに、お父様! ユーヂットは、操を犠牲にしましたが、それは相手が、勇猛無比なホロフェルネス、操を捨てゝかからなければ、油断をしなかつたからです。妾《わたくし》は、妻と云ふ名前ばかりで、相手を懲し得る自信があります。何うか妾《わたくし》を無いものと、お諦めになつて、三月か半年かの間、荘田の許へやつて下さいまし。匕首《あひくち》で相手を刺し殺す代りに、精神的にあの男を滅ぼして御覧に入れますから。」
 其処には、もう優しい処女の姿はなかつた。相手の卑怯な執念深い迫害のために、到頭最後の堪忍を、し尽して、反抗の刃を取つて立ち上がつた彼女の姿は、復讐の女神その物の姿のやうに美しく凄愴だつた。

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