いゝえ! 妾《わたくし》は、さうは思ひません。」瑠璃子は、昂然として父の言葉を遮ぎつた。「荘田のやりましたやうな奸計を廻らしたならば、どんな人間をだつて、罪に陥すことは容易だと思ひます。お父様が信任していらつしやる木下をまで、買収してお父様を罠に陥し入れるなど、悪魔さへ恥ぢるやうな卑怯な事を致すのでございますもの。もし、国に本当の法律がございましたら、荘田こそ厳罰に処せらるべきものだと思ひます。荘田のやうな悪人の道具になるやうな法律を、妾《わたくし》は心から呪ひたいと思ひます。」
眦《まなじり》が、裂けると云つたらいゝのだらう。美しい顔に、凄じい殺気が迸つた。父も、子の烈しい気性に、気圧されたやうに、黙々として聴いてゐた。
「お父様、あんな男に起訴されて、泣寝入りになさるやうな、腑甲斐ないことをして下さいますな。飽くまでも戦つて、相手の悪意を懲しめてやつて下さいませ。あゝ妾《わたくし》が男でございましたら、……本当に男でございましたら……」
瑠璃子は、熱に浮かされたやうに、昂奮して叫び続けた。
「が、瑠璃子! 法律と云ふものは人間の行為の形|丈《だけ》を、律するものなのだ。荘田が、悪魔のやうな卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れて居なければ、大手を振つて歩けるのだ。俺は切羽詰つて一寸逃れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情止むを得なかつたのだ。が、俺《わし》の行為の形は、ちやんと法律に触れてゐるのだ。法律が罰するものは、荘田の恐ろしい心ではなくして、俺《わし》の一寸した心得|違《ちがひ》の行為なのだ。行為の形なのだ!」
「若《も》し、法律がそんなに、本当の正義に依つて、動かないものでしたら、妾《わたくし》は法律に依らうとは思ひません。妾《わたくし》の力で荘田を罰してやります。妾《わたくし》の力で、荘田に思ひ知らせてやります。」
気が狂つたのではないかと思ふほど、瑠璃子の言葉は烈しくなつた。父は呆気に取られたやうに、子の口もとを見詰めてゐた。
「金の力が、万能でないと云ふことをあの男に知らせてやらねばなりません。金の力で動かないものが、世の中に在ることを知らせてやらねばなりません。このまゝで、お父様が、有罪になるやうな事がございましたら、荘田は何と思ふか分りません。世の中には、法律の力以上に、本当の正義があることを、あの男に思ひ知らせてやらねばなりません。金の力などは、本当の正義の前には土塊《つちくれ》にも等しいことを、あの男に思ひ知らせてやりたいと思ひます。」
さう云ひながら、瑠璃子は父の顔をぢつと見詰めてゐたが、思ひ切つたやうに云つた。
「お父様! お願ひでございます。瑠璃子を、無い者と諦めて、今後何を致しませうと、妾《わたくし》の勝手に委せて下さいませんか。」
瑠璃子の顔に、鉄のやうに堅い決心が閃いた。父は、瑠璃子の真意を測りかねて、茫然と愛児の顔を見詰めてゐた。
「お父様?[#「?」はママ] 妾《わたくし》は、ユーヂットにならうと思ふのでございます。」
七
「ユーヂット?」老いた父には、娘の云つた言葉の意味が分らなかつた。
「左様でございます。妾《わたくし》はユーヂットにならうと思ふのでございます。ユーヂットと申しますのは猶太《ユダヤ》の美しい娘の名でございます。」
「その娘にならうと云ふのは、どう云ふ意味なのだ!」父は、激しい興奮から覚めて、やゝ落着いた口調になつてゐた。
「ユーヂットにならうと申しますのは、妾《わたくし》の方から進んで、あの荘田勝平の妻にならうと云ふことでございます。」
瑠璃子の言葉は、樫の如く堅く氷の如く冷やかであつた。
「えーツ。」と叫んだまゝ、父は雷火に打たれた如く茫然となつてしまつた。
「お父様! お願ひでございます。どうか、妾《わたくし》をないものと諦めて、妾《わたくし》の思ふまゝに、させて下さいませ!」
瑠璃子は、何時の間にか再び熱狂し始めた。
「馬鹿なツ!」父は、烈しい、然し慈愛の籠つた言葉で叱責した。
「馬鹿なことを考へてはいけない! 親の難儀を救ふために子が犠牲になる。親の難儀を救ふために娘が、身売をする。そんな道徳は、古い昔の、封建時代の道徳ではないか。お前が、そんな馬鹿なことを考へる。聡明なお前が、そんな馬鹿なことを考へる。お父様《とうさん》を救はうとして、お前があんな豚のやうな男に身を委す。考へる丈《だけ》でも汚らはしいことだ! お前を犠牲にして、自分の難儀を助からうなどと、そんなさもしい[#「さもしい」に傍点]ことを考へる父だと思ふのか。俺《わし》は、自分の名誉や位置を守るために、お前の指一本髪一筋も、犠牲にしようとは思はない。そんな馬鹿々々しいことを考へるとは、平生のお前にも似合はないぢやないか。」
父は、思ひの外
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