。」
 瑠璃子は泣き顔を擡げながら、心配さうに訊いた。
 涙に洗はれた顔は、一種の光沢を帯びて、凄艶な美しさに輝いてゐるのであつた。

        五

「さあ! 其処なのだ! 今日警視総監が、個人として俺《わし》に会見を求めたのは、その問題なのだ。総監が云ふのには、この位なことで、貴方《あなた》を社会的に葬つてしまふことは、何とも遺憾なことなので告訴を取り下げるやうに懇々云つて見たが、頑として聴かない。そして唐沢氏本人がやつて来て、手を突いて謝まるならば告訴を取り下げようと云ふのだ。何うも先方では貴方《あなた》に対して何か意趣を含んで居るらしい。貴方も快くはあるまいが、此際先方に詫を入れて、内済にして貰つたら何うかと云ふのだ。貴方もあんな男に詫びるのは、不愉快だらうが、然し、貴方の社会的地位や名誉には換へられないから、此際思ひ切つて謝罪して見たら何うかと云つて呉れるのだ。先方が告訴を取り下げさへすれば、検事局では微罪として不起訴にしようと云つてゐると云ふのだ。」
 父は低くうめくやうに云つて来たが、茲まで来ると急に烈しい調子に変りながら、
「だが、瑠璃子考へておくれ。あんな男に、あんな卑しい人間に、謝罪はおろか、頭一つ下げることさへ、俺《わし》に取つてどんな恥辱であるか。俺《わし》は、それよりも寧ろ死を選みたいのだ。然し謝罪しないとなると、何うしても起訴を免れないのだ。起訴されると、お前此罪は破廉恥罪なのだ! 爵位も返上を命ぜられるばかりでなく、俺の社会的位置は、滅茶苦茶だ! あれ見い! 貴族院第一の硬骨と云はれた唐沢が、あのザマだと、世間から嘲笑されることを考へておくれ。死以上の恥辱だ。何の道を選んでも、死ぬより以上の恥辱なのだ。瑠璃子、俺《わし》が死なうと決心した心の裡を、お前は察して呉れるだらう。」
 瑠璃子は、父の苦しい告白を、石像のやうに黙つて聴いてゐた。火のやうに熱した身体中の血が今は却つて、氷のやうに冷たくなつてゐた。
「俺《わし》が死ねば、彼奴の迫害の手も緩むだらうし、それに依つて、汚名を流さずして済む。つまり、俺《わし》は悪魔の手に買ひ取られた俺《わし》の社会的名誉を、血を以て買ひ戻さうと思つたのだ。お前のことを、思はないではない。父の外には頼る者もないお前のことを思はないではない。が、破廉恥の罪人になることを考へると、泥棒と同じ汚名を被ることを考へると、何も考へてをられなくなつたのだ。」
 父は、さう云ひながら、心の裡の苦しさに堪へられないやうに、頻りに身を悶えた。
「が、扉《ドア》の外でお前が突然叫び出した声を聞くと、刀を持つてゐた俺《わし》の手が、しびれ[#「しびれ」に傍点]てしまつたやうに、何うしても俺《わし》の思ひ通《どほり》に、動かないのだ。未練だ! 未練だ! と、心で叱つても、手が何《ど》うしても云ふことを聴かないのだ。俺《わし》は、今初めてお前に対する父としての愛が、名誉心や政治上の野心などよりも、もつと大きいことが分つたのだ。俺《わし》は、社会上の位置を失つても、お前の為に生き延びようと思つたのだ。破廉恥罪の名を被《き》ても、お前の父として、生き延びようと思つたのだ。名誉や位置などは、なくなつても、お前さへあれば、まだ生き甲斐があると云ふことが、分つたのだ。いや名誉や野心のために、生きるのよりも、自分の子供のために、生きる方が人間として、どれほど立派であるかと云ふことが、今やつと分つたのだ。俺《わし》は、今光一を追出したことを後悔する。親の野心のために、子を犠牲にしようとしたことを後悔する。瑠璃子! お前のために、どんな汚名を忍んでも生き延びるのだ。お前も、罪人のお父様を見捨てないで、いつまでも俺《わし》の傍を離れて呉れるな。」
 父の顔は今、子に対する愛に燃えて、美しく輝いてゐた。彼は、子に対する愛に依つて、その苦しみの裡から、その罪の裡から、立派に救はれようとしてゐるのだつた。

        六

 さうだ! 子の心は、凄じい憤怒と復讐の一念とに、湧き立つた。父が、子に対する愛のために、敵の与へた恥辱を忍ばうとするのに拘はらず、子の心は敵に対する反抗と憎悪とのために、狂つてしまつた。
「お父様、それでいゝのでございませうか。お父様! 金さへあれば悪人がお父様のやうな方を苦しめてもいゝのでございませうか。而も、国の法律までが、そんな悪人の味方をするなどと云ふ、そんなことが、許されることでございませうか。」
 瑠璃子は、平生のおとなしい、慎しやかな彼女とは、全く別人であるやうに、熱狂してゐた。父は子の激昂を宥《なだ》めるやうに、「だが瑠璃子! 悪人がどんな卑しい手段を講じてもお父様さへ、しつかりしてゐればよかつたのだ。国の法律に触れたのはやつぱり俺《わし》の不心得だつたのだ。」

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