は、人の心を腐らすものだ。彼奴までが、十何年と云ふ長い間、目をかけて使つてやつた彼奴迄が、金のために俺《わし》を売つたのだ。金のために、十数年来の旧知を捨てゝ、敵の犬になつたのだ。それを思ふと、俺《わし》は坐つても立つてもをられないのだ!」
「木下が、何《ど》うしたと云ふのでございます。」
瑠璃子も、父の激昂に誘はれて桜色に充血した美しい顔を、極度に緊張させながら、問ひ詰めた。
「此間、彼奴が持つて来た軸物を、何だと思ふ、あれが、俺《わし》を陥れる罠だつたのだ。あれは一体誰のものだと思ふ。友達のものだと云ふ、その友達は誰だつたと思ふ。」
父は、眼を熱病患者のそれのやうに光らせながら、ぢつと瑠璃子を見下した。
「あれは誰のものでもない、あの荘田のものなのだ。荘田のものを、空々しく俺《わし》の所へ持つて来たのだ。」
「何の為でございましたらう。何だつてそんなことを致したのでございませう。でも、お父様はあの晩、直ぐお返しになつたではございませんか。」
瑠璃子が、さう云ふと父の顔は、見る/\曇つてしまつた。彼は、崩れるやうに後の腕椅子に身を落した。
「瑠璃さん! 許しておくれ! 罠をかける者も卑しい。が、それにかゝる者もやつぱり卑しかつたのだ。」
父は、さう云ふと肉親の娘の視線をも避けるやうに、面《おもて》を伏せた。
四
暫らくは、強い緊張の裡に、父も子も黙つてゐた。が、父はその緊張に堪へられないやうに、面《おもて》を俯けたまゝ、呟くやうに云つた。
「瑠璃さん! お前にスツカリ云つてしまはう。俺《わし》はな、浅墓にも、相手の罠にかゝつて飛んでもないことをしてしまつたのだ。あの木下の奴! 彼奴迄が、荘田の犬になつてゐようとは夢にも悟らなかつたのだ。お前に云ふのも恥しいが、俺《わし》は木下が、あの軸物を預けて行つたとき、フラ/\と魔がさしたのだ。一月でも二月でも何時まででも預けて置くと云ふ、此方《こつち》が通知しない中は、取りに来ないと云ふ。俺《わし》は、さう聴いたときに、此の一軸で一時の窮境を逃れようと思つたのだ。素晴らしい逸品だ、殊に俺《わし》の手から持つて行けば、三万や五万は、直ぐ融通が出来ると思つたのだ。果して融通は出来た。が、それは罠の中の餌に、俺《わし》が喰ひ付いたのと、丁度同じだつたのだ。彼奴は、俺《わし》を散々|餓《かつ》ゑさした揚句、俺《わし》の旧知を買収して、俺《わし》に罠をかけたのだ。飢ゑてゐた俺《わし》は、不覚にも罠の中の肉に喰ひ付いたのだ。罠をかける奴の卑しさは、論外だが、かゝつた俺《わし》の卑しさも笑つて呉れ。三十年の清節も、清貧もあつたものではない。」
父は、のたうつやうに、椅子の中で、身を悶えた。之《こ》れを聞いてゐる瑠璃子も、身体中が、猛火の中に入つたやうに、烈しい憤怒のために燃え狂ふのを感じた。
「それで、それで、何うなつたと云ふのでございます。」
彼女は、身を顫はしながら訊いた。卓の上にかけてゐる白い蝋のやうな手も、烈しい顫へを帯びてゐた。
「あの軸物の本当の所有者は荘田なのだ。彼奴は、俺《わし》に対して横領の告訴を出してゐるのだ。」
父は吐くやうに云つた。蒼白い頬が烈しく痙攣した。
「そんな事が罪になるのでございますか。」
瑠璃子の眼も血走つてしまつた。
「なるのだ! 逆に取つて、逆に出るのだから、堪らないのだ。預つてゐる他人の品物は、売つても質入してもいけないのだ。」
「でも、そんなことは、世間に幾何《いくら》もあるではございませんか。」
「さうだ! そんなことは幾何でもある、俺《わし》もさう思つてやつたのだ。が、向うでは初《はじめ》から謀つてやつた仕事だ。俺《わし》が少しでも、蹉《つまづ》くのを待つてゐたのだ。蹉けば後から飛び付かうと待つてゐたのだ。」
瑠璃子の胸は、荘田に対する恐ろしい怒《いかり》で、火を発するばかりであつた。
「人非人|奴《め》! 人非人奴! どれほどまで執念《しふね》く妾達《わたしたち》を、苦しめるのでございませう。あゝ口惜しい! 口惜しい!」
彼女は、平生のたしなみも忘れたやうに、身を悶えて、口惜しがつた。
「お前が、さう思ふのは無理はない。お父様だつて、昔であつたら、そのまゝにはして置かないのだが。」
父の顔は益《ます/\》凄愴な色を帯びてゐた。
「あゝ、男でしたら、男に生れてゐましたら。残念でございます。」
さう云ひながら、瑠璃子は卓の上に、泣き伏した。
何処かで、一時を打つ音がした、騒がしい都の夏の夜も、静寂に更け切つて、遠くから響いて来る電車の音さへ、絶えてしまつた。瑠璃子の泣き声が絶えると、深夜の静けさが、しん/\と迫つて来た。
「それで、その告訴は何《ど》うなるのでございますか。まさか取上げにはなりませんでせうね
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