て下さい! お父様!」
 瑠璃子が、続けざまに、呼びかけても、父は返事をしなかつた。父が、何とも返事をしないことが彼女の心を、スツカリ動顛させてしまつた。恐ろしい不安が、彼女の胸に、充ち溢れた。彼女は、扉《ドア》を力一杯押した。その細い、華奢な両腕が、折れるばかりに打ち叩いた。
「お父様! お父様! お開けなすつて下さい!」
 彼女の声は、狂女のそれのやうに、物凄かつた。魔物に、その可憐な弟を奪はれて、鉄の扉《ドア》の前で、狂乱するタンタヂールの姉のやうに、命掛の声を振搾《ふりしぼ》つた。
「お父様! 何うして茲をお閉めになるのです。茲をお閉めになつて何う遊ばさうとなさるのです。お開け下さい! お開け下さい。」
 が、父は何とも返事をしなかつた。父が返事をしない事に依つて、瑠璃子は、目が眩むほど恐ろしい不安に打たれた。彼女は、ふと気が付いて、窓から入らうと、電《いなづま》のやうに、ヴェランダへ走つて出た。が、ヴェランダに面した窓には、丈夫な鎧戸が掩はれてゐた。彼女は、死物狂ひになつて、再び扉《ドア》の所へ帰つて来た。そして、必死に、そのかよわい[#「かよわい」に傍点]、しなやか[#「しなやか」に傍点]な身体を、思ひ切り扉《ドア》に投げ付けて見た。が、扉《ドア》は無慈悲に、傲然と彼女の身体を突き返した。
 彼女は、血を吐かんばかりに叫んだ。
「お父様! なぜ、開けて下さらないのです。何う遊ばさうと云ふのです。此瑠璃を捨てゝ置いて何う遊ばさうと云ふのです。万一の事をなさいますと、瑠璃も生きてゐないつもりでございますよ。お父様! お恨みでございます。どんな事情がございませうとも、私に一応話して下さいましても、およろしいぢやございませんか。お父様の外に、誰一人頼る者もない瑠璃ではございませんか。お開け下さいませ。兎に角、お開け下さいませ。万一の事でもなさいますと、瑠璃はお父様をお恨みいたしますよ。」
 狂つたやうに、扉《ドア》を掻き、打ち、押し、叩いた後、彼女は扉《ドア》に、顔を当てたまゝよゝと泣き崩れた。
 その悲壮な泣き声が、古い洋館の夜更の暗を物凄く顫はせるのだつた。

        三

 よゝと泣き崩れた瑠璃子は、再び自分自身を凜々しく奮ひ起して、女々しく泣き崩れてゐるべき時ではないと思つた。彼女は、最後の力、その繊細な身体にある丈《だ》けの力を、両方の腕にこめて、砕けよ裂けよとばかりに、堅い、鉄のやうに堅い扉《ドア》を乱打した後、身体全体を、烈しい音を立てゝ、それに向つて、打ち付けた。その時に、何かの奇蹟が起つたやうに、今迄はガタリとも動かなかつた扉《ドア》が軽々と音もなく口を開いた。機《はづ》みを喰つた彼女の身体《からだ》は、つゝと一間ばかりも流れて、危く倒れようとした。その時、父の老いてはゐるけれども、尚力強い双腕が、彼女の身体を力強く支へたのである。
「お父様!」と、上ずツた言葉が、彼女の唇を洩れると共に、彼女は暫らくは失神したやうに、父の懐《ふところ》に顔を埋めたまゝ烈しい動悸を整へようと、苦しさにあへいでゐた。
 気が付いて見ると、父の顔は涙で一杯だつた。卓《テーブル》の上には、遺書《かきおき》らしく思はれる書状が、数通重ねられてゐる。
「瑠璃さん! あはれんでお呉れ! お父さんは死に損つてしまつたのだ! 死ぬことさへ出来ないやうな臆病者になつてしまつたのだ! お前の声を聞くと、私の決心が訳もなく崩されてしまつたのだ! お前に恨まれると思ふと、お父様は死ぬことさへ出来ないのだ。」
 父は、瑠璃子の昂奮が、漸く静まりかけるのを見ると、呟くやうに語り始めた。
「まあ、何を仰《おつ》しやるのでございます、死ぬなどと。まあ何を仰しやるのでございます。一体何うしたと云つて、そんな事を仰しやるのでございます。」
「あゝ恥しい。それを訊いて呉れるな! 俺《わし》はお前にも顔向けが出来ないのだ! 彼奴《あいつ》の恐ろしい罠に、手もなくかゝつたのだ。あんな卑しい人間のかけた罠に、狐か狸かのやうに、手もなくかゝつたのだ。恥しい! 自分で自分が厭になる!」
 父は、座にも堪へないやうに、身悶えして口惜しがつた。握つてゐる拳がブル/\と顫へた。
「彼奴と仰《おつ》しやりますと、やつぱり荘田でございますか。荘田が、何をいたしましたのでございますか。」
 瑠璃子も烈しい昂奮に、眼の色を変へながら、父に詰め寄つて訊いた。
「今から考へると、見え透いた罠だつたのだ。が、木下までが、俺《わし》を売つたかと思ふと俺《わし》は此の胸が張り裂けるやうになつて来るのだ!」
 父は、木下が眼前《めのまえ》にでもゐるやうに、前方を、きつと睨みながら、声はわな/\と顫へた。
「へえ! あの木下が、あの木下が。」と、瑠璃子も暫らくは茫然となつた。
「金《かね》
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