顔を合せた丈《だけ》で、私交のある間ではなかつた。殊に、父は政府当局からは常に、白眼を以て見られてゐたのだから。
「何の用事だらう?」
父は、一寸不審さうに首を傾けた。警視総監と云つたやうな言葉|丈《だけ》でも、瑠璃子には妙に不安の種だつた。
が、父は何か考へ当る事があつたのだらう、割合気軽に出かけて行つた。が、掻き乱された瑠璃子の胸は、父の車を見送つた後も、暫らくは静まらなかつた。
父は、一時間も経たぬ間に帰つて来た。瑠璃子は、ホツと安心して、いそ[#「いそ」に傍点]/\と玄関に出迎へた。
が、父の顔を一目見たとき、彼女はハツと立竦んでしまつた。容易ならぬ大事が、父の身辺に起つたことが、直ぐそれと分つた。父の顔は、土のやうに暗く蒼ざめてゐた。血の色が少しもないと云つてよかつた。眼|丈《だけ》は、平素のやうに爛々と、光つてゐたが、その光り方は、狂人の眼のやうに、物凄く而も、ドロンとして力がなかつた。
「お帰りなさいまし。」と、云ふ瑠璃子の言葉も、しはがれ[#「しはがれ」に傍点]たやうに、咽喉にからんでしまつた。瑠璃子が、父の顔を見上げると、父は子に顔を見られるのが、恥しさうに、コソ/\と二階へ上つて行かうとした。
父の狼狽したやうな、血迷つたやうな姿を見ると、瑠璃子の胸は、暗い憂慮で一杯になつてしまつた。彼女は、父を慰めよう、訳を訊かうと思ひながら、オヅ/\父の後から、随《つ》いて行つた。
が、父は自分の居間へ入ると、後から随いて行つた瑠璃子を振り返りながら云つた。
「瑠璃さん! どうか、お父様を、暫らく一人にして置いて呉れ!」
父の言葉は、云ひ付けと云ふよりも哀願だつた。父としての力も、権威もなかつた。
それにふと気が付くと、さう云つた刹那、父の二つの眼には、抑へかねた涙が、ほた/\と湧き出してゐるのだつた。
父が涙を流すのを見たのは、彼女が生れて十八になる今日まで、父が母の死床に、最後の言葉をかけた時、たつた一度だつた。
瑠璃子は、父にさう云はれると、止むなく自分の部屋に帰つたが、一人自分の部屋にゐると、墨のやうな不安が、胸の中を一杯に塗り潰してしまふのだつた。
夕食の案内をすると、父は、『喰べたくない』と云つたまゝ、午後四時から、夜の十時頃まで、カタと云ふ物音一つさせなかつた。
十時が来ると、寝室へ移るのが、例だつた。瑠璃子は、十時が鳴ると父の部屋へ上つて行つた。そして、オヅ/\扉《ドア》を開けながら云つた。
「もう、十時でございます。お休み遊ばしませ。」黙然としてゐた父は、手を拱ねいたまゝ、振向きもしないで答へた。
「俺は、もう少し起きてゐるから、瑠璃子さんは先きへお寝なさい!」
さう云はれると、瑠璃子は、愈《いよ/\》不安になつて来た。寝室へ退くことなどは愚か、父の部屋を遠く離れることさへが、心配で堪らなくなつて来た。瑠璃子は、階段を中途まで降りかけたが、烈しい胸騒ぎがして、何うしても足が、進まなかつた。彼女は、足音を忍ばせながら、そつと、引き返した。彼女は、灯もない廊下の壁に、寄り添ひながら立つてゐた。父が、寝室へ入るまでは、何うにも父の傍を離れられないやうに思つた。
二
二十分経ち三十分経つても、父は寝室へ行くやうな様子を見せなかつた。そればかりではなく、部屋の中からは、身動きをするやうな物音一つ聞えて来なかつた。瑠璃子も、息を凝しながら、ずつとほの暗い廊下の暗《やみ》に立つてゐた。一時間余りも、立ち尽したけれども、疲労も眠気も少しも感じなかつた。それほど、彼女の神経は、異常に緊張してゐるのだつた。ぢぢと鳴く庭前の、虫の声さへ手に取るやうに聞えて来た。
十二時を打つ時計の音が、階下の闇から聞えて来ても、父は部屋から出て来る様子はなかつた。
夜が、深くなつて行くのと一緒に、瑠璃子の不安も、だん/\深くなつて行つた。十二時を打つのを聞くと、もうぢつと、廊下で待つてゐられないほど、彼女の心は不安な動揺に苛まれた。彼女は、無理にも父を寝させようと決心した。云ひ争つてでも、父を寝室へ連れて行かうと決心した。彼女が、さう決心して、扉《ドア》の白い瀬戸物の取手に、手を触れたときだつた。何時もは、訳もなくグルリと廻転する取手が、ガチリと音を立てたまゝ、彼女の手に逆ふやうにビクリともしなかつた。
『内部《うち》から鍵をかけたのだ!』
さう思つた瞬間に、瑠璃子は鉄槌で叩かれたやうに、激しい衝動《ショック》を受けた。気味の悪い悪寒が、全身を水のやうに流れた。
「お父様!」彼女は、我を忘れて叫んだ。その声は、悲鳴に近い声だつた。が、瑠璃子が、さう声をかけた瞬間、今迄|静《しづか》であつた父が、俄に立ち上つて、何かをしてゐるらしい様子が、アリ/\と感ぜられた。
「お父様! お開けなすつ
前へ
次へ
全157ページ中46ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング