ばかりに、駭《おどろ》いたのも無理ではなかつた。駭くのと一緒に、有頂天になつて、躍り上つて、欣ぶべき筈であつた。が、実際は、その紙幣を見た瞬間に云ひ知れぬ不安が、潮の如くヒタ/\と彼女の胸を充した。
 瑠璃子は、父がその札束を、無造作に取り上げるのを、恐ろしいものを見るやうに、無言のまゝぢつと見詰めて居た。
 父が、応接室へ出て行くと、鷲鼻の男は、やんごとない[#「やんごとない」に傍点]高貴の方の前にでも出たやうに、ペコ/\した。
「これは、これは男爵様でございますか。私はあの、荘田に使はれてをりまする矢野と申しますものでございます。今日は止むを得ません主命で、主人も少々現金の必要に迫られましたものですから止むを得ず期限通りにお願ひ致しまする次第で、何の御猶予も致しませんで、誠に恐縮致してをる次第でござります。」父は、さうした挨拶に返事さへしなかつた。
「証文を出して呉れたまへ。」父の言葉は、匕首のやうに鋭く短かつた。
「はあ! はあ!」
 相手は、周章《あわて》たやうに、ドギマギしながら、折鞄の中から、三葉の証書を出した。
 父は、ぢつと、それに目を通してから、右の手に、鷲掴みにしてゐた札束を、相手の面前に、突き付けた。
 相手は、父の鋭い態度に、オド/\しながら、それでも一枚々々|算《かぞ》へ出した。
「荘田に言伝をしておいて呉れたまへ、いゝか。俺の云ふことをよく覚えて、言伝をして、おいて呉れ給へ。此の唐沢は貧乏はしてゐる。家も邸も抵当に入つてゐるが、金銭のために首の骨を曲げるやうな腰抜けではないぞ。日本中の金の力で、圧迫されても、横に振るべき首は、決して縦には動かさないぞ。といゝか。帰つて、さう云ふのだ! 五万や十万の債務は、期限|通《どほり》何時でも払つてやるからと。」
 父は、犬猫をでも叱咤するやうに、低く投げ捨てるやうな調子で云つた。相手は何と、罵られても、兎に角厭な役目を満足に果し得たことを、もつけ[#「もつけ」に傍点]の幸と思つてゐるらしく、一層丁寧に慇懃だつた。
「はあ! はあ! 畏まりました。主人に、さう申し聞けますでござります。どうも、私の口からは、申し上げられませんが、成り上り者などと云ふ者は、金ばかりありましても、人格などと云ふものは皆目持つてゐない者が、多うございまして、私の主人なども、使はれてゐる者の方が、愛想を尽かすやうな、卑しい事を時々、やりますので。いや、閣下のお腹立《はらだち》は、全く御尤もです。私からも、主人に反省を促すやうに、申します事でございます。それでは、これでお暇《いとま》致します。」
 丁度|烏賊《いか》が、敵を怖れて、逃げるときに厭な墨汁を吐き出すやうに、この男も出鱈目な、その場限りの、遁辞を並べながら、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]卒として帰つて行つた。
 さうだ! 父は最初の悪魔の突撃を物の見事に一蹴したのだつた。この次ぎの期限までには、半年の余裕がある。その間には、父の親友たる本多男爵も帰つて来る。さう思ふと、瑠璃子はホツと一息ついて安心しなければならない筈だつた。が、彼女の心は、一つの不安が去ると共に、又別な、もつと性質《たち》のよくない不安が、何時の間にか入れ換つてゐた。
「瑠璃さん! お前にも心配をかけて済まなかつたなう。もう安心するがいゝ。これで何事もないのだ。」
 父は、客が帰つた後で、瑠璃子の肩に手をかけながら慰め顔にさう云つた。
 が、瑠璃子の心は、怏々として楽しまなかつた。
『お父様! あなたは、あの大金を何うして才覚なさつたのです。』
 さう云ふ不安な、不快な、疑ひが咽喉まで出かゝるのを、瑠璃子は、やつと抑へ付けた。


 ユーヂット

        一

 一家の危機は過ぎた。六月は暮れて、七月は来た。が、父の手文庫の中に奇蹟のやうに見出された、三万円以上の、巨額な紙幣に対する、瑠璃子の心の新しい不安は、日の経つに連れても、容易には薄れて行かなかつた。
 七月も半《なかば》になつた。庭先に敷き詰めた、白い砂利の上には、瑠璃子の好きな松葉牡丹が、咲き始めた。真紅や、白や、琥珀のやうな黄や、いろ/\変つた色の、少女のやうな優しい花の姿が、荒れた庭園の夏を彩る唯一の色彩だつた。
 荘田の、思ひ出す丈《だけ》でも、憤《いきどほ》ろしい面影も、だん/\思ひ出す回数が、少くなつた。鷲鼻の男の顔などは、もう何時の間にか、忘れてしまつた。凡てが、一場の悪夢のやうに、その厭な苦い後感も何時しか消えて行くのではないかと思はれた。
 が、それは瑠璃子の空しい思違《おもひちがひ》だつた。悪魔は、その最後の毒矢を、もう既に放つてゐたのだつた。
 七月の末だつた。父は、突然警視総監のT氏から、急用があると云つて、会見を申し込まれた。父は、T氏とは公開の席で、二三度
前へ 次へ
全157ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング