に。」瑠璃子は、それとなく引き止めるやうに云つた。
「いや、木下から預つた軸物が急に心配になつてね。これから行つて、届けてやらうと思ふのだ。向うでは、あゝした高価なものだとは思はずに、預けたのだらうから。」父の答へは、何だか曖昧だつた。
「それなら、直ぐ手紙でもお出しになつて、取りに参るやうに申したら、如何でございませう。別に御自身でお出かけにならなくても。」瑠璃子は、妙に父の行動が不安だつた。
「いや、一寸行つて来よう。殊に此家は、何時差押へになるかも知れないのだから。預つて置いて差押へられたりすると、面倒だから。」父は声低く、弁解するやうに云つた。さう云へば、父が直ぐ返しに行かうと云ふのにも、訳がないことはなかつた。
 が、父が車に乗つて、その軸物の箱を肩に靠《もた》せながら、何処ともなく出て行く後姿を見た時、瑠璃子の心の中の妙な不安は極点に達してゐた。

        六

 到頭呪はれた六月の三十日が来た。梅雨時には、珍らしいカラリとした朗かな朝だつた。明るい日光の降り注いでゐる庭の樹立では、朝早くから蝉がさん[#「さん」に傍点]/\と鳴きしきつてゐた。
 が、早くから起きた瑠璃子の心には、暗い不安と心配とが、泥のやうに澱んでゐた。父が、昨夜遅く、十二時に近く、酒気を帯びて帰つて来たことが、彼女の新しい心配の種だつた。還暦の年に禁酒してから、数年間一度も、酒杯を手にしたことのない父だつたのだ。あれほど、気性の激しい父も、不快な執拗な圧迫のために、自棄になつたのではないかと思ふと、その事が一番彼女には心苦しかつた。
 つい此間来た、鷲の嘴のやうな鼻をした男が、今にも玄関に現れて来さうな気がして、瑠璃子は自分の居間に、ぢつと坐つてゐることさへ、出来なかつた。あの男が、父に直接会つて、弁済を求める。父が、素気《すげ》なく拒絶する。相手が父を侮辱するやうな言葉を放つ。いら/\し切つて居る父が激怒する。恐ろしい格闘が起る。父が、秘蔵の貞宗の刀を持ち出して来る。さうした厭な空想が、ひつきりなしに瑠璃子の頭を悩ました。が、午前中は無事だつた。一度玄関に訪《おとな》ふ声がするので驚いて出て見ると、得体の知れぬ売薬を売り付ける偽癈兵だつた。午後になつてからも、却々《なか/\》来る様子はなかつた。瑠璃子は絶えずいら/\しながら厭な呪はしい来客を待つてゐた。
 父は、朝食事の時に、瑠璃子と顔を合はせたときにも、苦り切つたまゝ一言も云はなかつた。昨日《きのふ》よりも色が蒼く、眼が物狂はしいやうな、不気味な色を帯びてゐた。瑠璃子もなるべく父の顔を見ないやうに、俯いたまゝ食事をした。それほど、父の顔は傷《いたま》しく惨《みじめ》に見えた。昼の食事に顔を合した時にも、親子は言葉らしい言葉は、交さなかつた。まして、今日が呪はれた六月三十日であると云つたやうな言葉は、孰《どち》らからも、おくび[#「おくび」に傍点]にも出さなかつた。その癖、二人の心には六月三十日と云ふ字が、毒々しく烙《や》き付けられてゐるのだつた。
 が、長い初夏の日が、漸く暮れかけて、夕日の光が、遥かに見える山王台の青葉を、あか/\と照し出す頃になつても、あの男は来なかつた。あんなに、心配した今日が、何事も起らずに済むのだと思ふと、瑠璃子は妙に拍子抜けをしたやうな、心持にさへならうとした。
 が、然し悪魔に手抜かりのある筈はなかつた。その犠牲《いけにへ》が、十分苦しむのを見すまして、最後に飛びかゝる猫のやうに瑠璃子父子が、一日を不安な期待の裡に、苦しみ抜いて、やつと一時逃れの安心に入らうとした間隙に、かの悪魔の使者は護謨輪《ごむわ》の車に、音も立てず、そつと玄関に忍び寄つたのだつた。
「いや、大変遅くなりまして相済みません。が、遅く伺ひました方が、御都合が、およろしからうと思ひましたのですから、お父様は御在宅でせうか。」
 瑠璃子が、出迎へると、その男は妙な薄笑ひをしながら、言葉|丈《だけ》はいやに、鄭重だつた。
 来る者が、到頭来たのだと思ひながらも、瑠璃子はその男の顔を見た瞬間から、憎悪と不快とで、小さい胸が、ムカムカと湧き立つて来るのだつた。
「お父様! 荘田の使が参りました。」
 さう父に取り次いだ瑠璃子の声は、かすかに顫へを帯びるのを、何うともする事が出来なかつた。
「よし、応接室に通して置け。」
 さう云ひながら、父は傍の手文庫を無造作に開いた、部屋の中は可なり暗かつたが、その開かれた手文庫の中には、薄紫の百円紙幣の束が、――さうだ一寸にも近い束が、二つ三つ入れられてあるのが、アリ/\と見えた。
 瑠璃子は、思はず『アツ!』と声を立てようとした。

        七

 父の手文庫に思ひがけなくも、ほのかな薄紫の紙幣の厚い束を、発見したのであるから、瑠璃子が声を立てる
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