と、命じた。が、瑠璃子が、父の云ひ付《つけ》に従つて、その長方形の風呂敷包を、取り上げようとした時だつた。父の心が、急にふと変つたのだらう。
「あ、さう。やつぱり一寸見て置くかな。どうせ贋に定《きま》つてゐるのだが。」
 さう云ひながら、父は瑠璃子の手から、その包みを取り返した。父は包みを解いて、箱を開くと遉《さすが》に丁寧に、中の一軸を取り出した。幅三尺に近い大幅だつた。
「瑠璃さん! 一寸掛けて御覧。その軸の上へ重ねてもいゝから。」
 瑠璃子は父の命ずるまゝに、応接室の壁に古くから懸つて居る、父が好きな維新の志士雲井龍雄の書の上へ、夏珪の山水を展開した。
 先づ初め、層々と聳えてゐる峰巒《ほうらん》の相《すがた》が現れた。その山が尽きる辺から、落葉し尽くした疎林が淡々と、浮かんでゐる。疎林の間には一筋の小径が、遥々と遠く続いてゐる。その小径を横ぎつて、水の乾《か》れた小流《さながれ》が走つてゐる。その水上に架する小さい橋には、牛に騎した牧童が牧笛を吹きながら、通り過ぎてゐる。夕暮が近いのであらう、蒼茫たる薄靄が、ほのかに山や森を掩うてゐる。その寂寞を僅かに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音であるのだらう。
 父は、軸が拡げられるのと共に、一言も言葉を出さなかつた。が、ぢつと見詰めてゐる眸には感激の色がアリ/\と動いてゐた。五分ばかりも黙つてゐただらう。父は感に堪へたやうに、もう黙つてはゐられないやうに云つた。
「逸品だ。素晴らしい逸品だ。此間、伊達侯爵家の売立に出た夏珪の『李白観瀑』以上の逸品だ!」
 父は熱に浮かされたやうに云つてゐた。夏珪の『李白観瀑』は、つい此間行はれた伊達家の大売立に九万五千円と云ふ途方もない高値を附せられた品物だつた。

        五

「不思議だ! 木下などが、こんな物を持つて来る!」父は暫らくの間は魅せられたやうに、その山水図に対して、立つてゐた。
「そんなに、此絵がいゝのでございますか。」瑠璃子も、つい父の感激に感染して、かう訊いた。
「いゝとも。徽宗《きそう》皇帝、梁楷《りやうかい》、馬遠、牧渓《ぼくけい》、それから、この夏珪、みんな北宗画の巨頭なのだ。どんな小幅だつて五千円もする。この幅などは、お父様が、今迄見た中での傑作だ。北宗画と云ふのは、南宗画とはまた違つた、柔かい佳い味のあるものだ。」
 父は、名画を見た欣びに、つい明日に迫る一家の窮境を忘れたやうに、瑠璃子に教へた。
「さうだ。早く木下に知らせてやらなければいけない。贋物だからいくら預つてゐても、心配ないと思つて預つたが、本物だと分ると急に心配になつた。さうだ瑠璃さん! 二階の押入れへ、大切に蔵《しま》つて置いておくれ!」
 父は十分もの間、近くから遠くから、つくづくと見尽した後、さう云つた。
 瑠璃子は、それを持つて、二階への階段を上りながら思つた。自分の手中には、一幅十万円に近い名画がある。此の一幅さへあれば一家の窮状は何の苦もなく脱することが出来る。何んなに名画であらうとも、長さ一丈を超えず、幅五尺に足らぬ布片に、五万十万の大金を投じて惜しまない人さへある。それと同時に、同じ金額のために、いろ/\な侮辱や迫害を受けてゐる自分達父娘もある。さう思ふと、手中にあるその一幅が、人生の不当な、不公平な状態を皮肉に示してゐるやうに思はれて、その品物に対して、妙な反感をさへ感じた。
 その日の午後、二階の居間に閉ぢ籠つた父は、何《ど》うしたのであらう。平素《いつも》に似ず、檻に入れられた熊のやうに、部屋中を絶間なしに歩き廻つてゐた。瑠璃子は、階下の自分の居間にゐながら、天井に絶間なく続く父の足音に不安な眸を向けずには、ゐられなかつた。常には、軽い足音さへ立てない父だつた。今日は異常に昂奮してゐる様子が、瑠璃子にもそれと分つた。暫らく音が、絶えたかと思ふと、又立ち上つて、ドシ/\と可なり激しい音を立てながら、部屋中を歩き廻るのだつた。瑠璃子はふと、父が若い時に何かに激昂すると、直ぐ日本刀を抜いて、ビユウビユウと、部屋の中で振り廻すのが癖だつたと、亡き母から聞いたことを思ひ出した。
 あんなに、父が昂奮してゐるとすると、若し明日荘田の代理人が、父に侮辱に近い言葉でも吐くと短慮な父は、どんな椿事を惹き起さないとも限らないと思ふと、瑠璃子は心配の上に、又新しい心配が、重なつて来るやうで、こんな時家出した兄でも、ゐて呉れゝばと、取止めもない愚痴さへ、心の裡に浮んだ。
 その日、五時を廻つた時だつた。父は、瑠璃子を呼んで、外出をするから、車を呼べと云つた。もう、金策の当《あて》などが残つてゐる筈はないと思ふと、彼女は父が突然出かけて行くことが、可なり不安に思はれた。
「何処へ行らつしやるのでございますか。もう直ぐ御飯でございますの
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