るかい!」
父は、心の中《うち》の苦悶を、此の来客に依つて、少しは紛ぎらされたやうに、淋しい微笑を、浮べながら応接室へ入つて行つた。
「お蔭さまで此の頃は、何うにかかうにか、一本立で食つて行けるやうになりました。もう、二年お待ち下さい! その中《うち》には、閣下への御恩報じも、万分の一の御恩報じも、出来るやうな自信もありますから。」
さう云ひながら、得意らしく哄笑した。此の場合の父には、さうした相手のお世辞さへ嬉しかつた。
「さうかい! それは、結構だな、俺は、相変らず貧乏でなう。年頃になつた娘にさへ、いろ/\の苦労をかけてゐる始末でなう。」
父はさう云ひながら、茶を運んで行つた瑠璃子の方を、詫びるやうに見た。
「いや、今に閣下にも、御運が向いて来る時代が参りますよ。此の頃ポツ/\新聞などに噂が出ますやうに、若し××会中心の貴族院内閣でもが、出来るやうな事がありましたら、閣下などは、誰を差し措いても、第一番の入閣候補者ですから、本当に、今暫くの御辛抱です。三十年近い間の、閣下の御清節が、報はれないで了ると云ふことは、余りに不当なことですから。……いやどうも、閣下のお顔を見ると、思はずかうした愚痴が出て困ります。いや、実は本日参つたのは、一寸お願ひがあるのです。」
さう云ひながら、その男は立ち上つて、応接室の入口に、立てかけてあつた風呂敷包を、卓《テーブル》の上に持つて来た。その長方形な恰好から推して、中が軸物であることが分つてゐた。
「実は、之《これ》を閣下に御鑑定していたゞきたいのです。友人に頼まれましたのですが、書画屋などには安心して頼まれませんものですから。是非一つ閣下にお願ひしたいと思うたものですから。」
瑠璃子の父は、素人鑑定家として、堂に入つてゐた。殊に北宗画南宗画に於ては、その道の権威だつた。
「うむ! 品物は何《なん》なのだな。」父は余り興味がないやうに云つた。書画を鑑定すると云つたやうな、落着いた気分は、彼の心の何処にも残つてゐなかつたのである。
「夏珪《かけい》の山水図です。」
「馬鹿な。」父は頭から嘲るやうに云つた。「そんな品物が、君達の手にヒヨコ/\あるものかね。それに、見れば、大幅ぢやないか。まあ黙つて持つて帰つた方がいゝだらう。見なくつても分つてゐるやうなものだ。ハヽヽヽヽヽ。」
父は、丸切《まるきり》り[#「丸切《まるきり》り」はママ]相手にしようとはしなかつた。相手は、父にさう云はれると、恐縮したやうに、頭をかきながら、
「閣下に、さう手厳しく出られると、一言もありません。が、諦めのために見て戴きたいのです。贋物は覚悟の前ですから。持つてゐる当人になると、怪しいと思ひながら、諦められないものですから。ハヽヽヽヽヽヽ。」
四
久し振で、訪ねて来た旧知の熱心な頼みを聞くと、父は素気《すげ》なく、断りかねたのであらう、それかと云つて、書画を鑑定すると云つたやうな、静かな穏かな気持は、今の場合、少しも残つてはゐないのだつた。
「見ないことはないが、今日は困るね、日を改めて、出直して来て貰ひたいね。」父は余儀なささうに云つた。
「いや決して、直ぐ只今見て下さいなどと、そんな御無理をお願ひいたすのではありません。お手許へおいて置きますから、一月でも二月でも、お預けしておきますから、何うかお暇な時に、お気が向いたときに。」相手は、叮嚀に懇願《こんぐわん》した。
「だが、夏珪の山水なんて、大した品物を預つておいて、若《も》しもの事があると困るからね。尤も、君などが、さうヒヨツクリ本物を持つて来ようなどとは、思はないけれども、ハヽヽヽヽ。」
父は、品物が贋物であることに、何の疑ひもないやうに笑つた。
「いやそんな御心配は、御無用です。閣下のお手許に置いて置けば、日本銀行へ供託して置くより安全です。ハヽヽヽ。閣下のお口から、贋だと一言仰しやつて下さると当人も諦めが、付くものですから。」
相手に、さう如才なく云はれると、父も断りかねたのであらう。口では、承諾の旨を答へなかつたけれども、有耶無耶《うやむや》の裡に、預ることになつてしまつた。
その用事が、片付くと客は、取つて付けたやうに、政局の話などを始めた、父は暫らくの間、興味の乗らないやうな合槌を打つてゐた。
客が、帰つて行くとき、父は玄関へ送つて出ながら、
「凡そ何時取りに来る?」と訊いた。やつぱり、軸物のことが少しは気になつてゐるのだつた。
「御覧になつたら、ハガキででも、御一報を願へませんか、本当にお気に向いた時でよろしいのですから。当方は、少しも急ぎませんのですから。」
客は幾度も繰返しながら、帰つて行つた。応接室へ引き返した父は、瑠璃子を呼びながら、
「之《これ》を蔵《しま》つて置け、俺《わし》の居間の押入へ。」
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