お嬢さまに求婚するなどと笑ひ話にもなりません。実は、当人と申すのは私の倅、今年二十五になります。亡妻の遺児《わすれがたみ》です。」
一寸殊勝らしく声を落しながら、
「その倅とても、年こそお嬢様に似合ひでございますが、いやもう一向下らない人物です。が、若《も》し万一お嬢様を下さるやうな事がありましたら、これほど有難い――私の財産を半分無くしても惜しくはない――仕合せだと思ひますのですが。が、そのお話は、兎も角、閣下の御債務は凡て、私に払はせていたゞきたいと思ひましたから、一月あまりも心掛けて、もう大抵は買ひ蒐めた積りでございますが、縁談のお話などとは別に、これ丈は私の寸志です。どうか御心置きなく、お受取り下さるやうに。」さう云ひながら、父の負うてゐる借財の証書の全部を一つの袋に収めて父の前に差し出したらしかつた。
虚心平気に、勝平の云ひ分を聴けば、無躾なところは、あるにせよ、成金らしい傲岸な無遠慮なところはあるにせよ、それほど、悪意のあるものとは思はれなかつた。が、瑠璃子にはさうではなかつた。瑠璃子と、その恋人とを思ひ知らせるために、悪魔は、瑠璃子を奪つて、自分の妻に――名前|丈《だけ》は妻でも、本当はその金力を示すための装飾品に――しようとした。が、瑠璃子の父が、予想以上に激怒したのと、年齢の余りな相違から来る世間の非難とを慮《おもんぱか》つて、自分の名義で買ふ代りに、息子の名義で買はうとする、瑠璃子を商品と見てゐる点に於ては、何の相違もない。瑠璃子と彼女の恋人とを思ひ知らせようとする、蛇のやうな執念には何の相違もない。正面から飛びかゝつて父から、手ひどく跳付《はねつ》けられた悪魔は、今度は横合から、そつと騙《たぶら》かさうと掛つてゐるのだつた。
八
瑠璃子には、相手の心が十分に見透かされてゐる。が、相手の本心を知らない父は、その空々しい上部《うはべ》の理由|丈《だけ》に、うか/\と乗せられて、もしや相手の無躾な贈り物を、受け取りはしないかと、瑠璃子はひそかに心を痛めた。縁談などとは別にと、口で美しく云ふものゝ、父が相手の差し出す餌にふれた以上、それを機《しほ》に、否応なしに自分を、浚つて行かうとする相手の本心が、彼女には余りに明かであつた。
父を何《ど》うにか騙《だま》して娘を浚つて行く、それで娘にも、彼女の恋人にも、苦痛を与へればよいのだと相手が謀《たくら》んでゐるらしいのが、瑠璃子には、余りに判り過ぎてゐるやうに思へた。
が、瑠璃子の心配は無駄だつた。父は相手が長々と喋《しや》べり続けたのを聞いた後で、二三分ばかり黙つてゐたらしいが、急にゐずまひを正したらしく、厳格な一分も緩みのない声で云つた。
「いや、大きに有難う。あなたの好意は感謝する。が、考ふる所あつて、お受けすることは出来ない。借財は証文の期限|通《どほり》に、ちやんと弁済する。それから、縁談の事ぢやが、本人が貴方《あなた》であらうが御子息であらうが、お断りすることには変りがない。何うか悪しからず。」
父は激せず熱せず、毅然とした立派な調子で云ひ放つた。父の立派な男らしい態度を、瑠璃子は蔭ながら、伏し拝まずにはゐられなかつた。何と云ふ凜々しい態度であらう。どんなに此の先苦しまうとも、あゝした父を、父としてゐることは、何といふ幸福であらうかと思ふと、熱い涙が知らず識らず、頬を伝つて流れた。
真向から平手でピシヤツと、殴《なぐ》るやうな父の返事に、相手は暫らくは、二の句が、次《つ》げないらしかつた。が、暫らくすると、太い渋い不快な声が聞え始めた。
「ふゝむ。これほど申し上げても、私の好意を汲んで下さらない。これほど申上げても、私の心がお分りになりませんのですか。」
相手の言葉付は、一眸の裡に変つてゐた。豹だ、一太刀受けて、後退《あとじさり》しながら、低くうなつてゐるやうな無気味な調子だつた。
「はゝゝゝ、好意! はゝゝゝ、お前さんは、こんなことを好意だと、云ひ張るのですか。人の顔に唾を吐きかけて置いて、好意であるもないものだ。はゝゝゝゝゝゝ。」父は、相手を蔑すみ切つたやうに嘲笑《あざわら》つた。
「はゝゝ、閣下も、貧乏をお続けになつたために、何時の間にか、僻んでおしまひになつたと見える。此の荘田が、誠意誠心申上げてゐることが、お分りにならない。」
相手も、負けてはゐなかつた。豹が、その本性を現して、猛然と立ち上つたのだつた。
「はゝゝゝゝ、誠意誠心か! 人の娘を、金で買ふと云ふ恥知らずに、誠意などがあつて、堪るものか。出直してお出なさい!」父は、低い力強い声で、さう罵つた。
「よろしい! 出直して参りませう。閣下、覚えて置いて下さい! 此の荘田は、好意を持つてをりますと同時に、悪意も人並に持つてゐるものでございますから。お言葉に
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