従つて、いづれ出直して参りますから。」さう云ひ捨てると、相手は荒々しく扉《ドア》を排して、玄関へ出て行つた。
瑠璃子が、急いで応接室に駈け込んだとき、父はそこに、昂然と立つてゐた。半白の髪が、逆立つてゐるやうにさへ見えた。
「お父様!」瑠璃子は、胸が一杯になりながら、駈け寄つた。
「あゝ瑠璃子か。聞いてゐたのか。さあ! お前もしつかりして、飽くまでも戦ふのだ。強くあれ、さうだ飽くまでも強くあることだ!」
さう云ひながら父は、彼の痩せた胸懐《むなぶところ》に顔を埋めてゐる娘の美しい撫肩《なでがた》を、軽く二三度叩いた。
罠
一
羊の皮を被つて来た狼の面皮を、真正面から、引き剥いだのであるから、その次ぎの問題は、狼が本性を現して、飛びかゝつて来る鋭い歯牙を、どんなに防ぎ、どんなに避くるかにあつた。
が、その狼の毒牙は、法律に依つて、保護されてゐる毒牙だつた。今の世の中では、国家の公正な意志であるべき法律までが、富める者の味方をした。
勝平に買ひ占められた証書の一部分の期限はもう十日と間のない六月の末であつた。今までは、期限が来る毎に、幾度も幾度も証書の書換をした。そのために、証書の金額は、年一年増えて行つたものゝ、何《ど》うにか遣繰《やりくり》は付いてゐた。が、それが悪意のある相手の手に帰して、こちらを苛責《いぢめ》るための道具に使はれてゐる以上、相手が書換や猶予の相談に応ずべき筈はなかつた。
六月の末日が、段々近づいて来るに従つて、父は毎日のやうに金策に奔走した。が、三万を越してゐる巨額の金が、現在の父に依つて容易に、才覚さるべき筈もなかつた。
朝起きると、父は蒼ざめながらも、眼《まなこ》丈《だけ》は益《ます/\》鋭くなつた顔を、曇らせながら、黙々として出て行つた。玄関へ送つて出る瑠璃子も、
「お早くお帰りなさいまし。」と、挨拶する外は何の言葉もなかつた。が、送り出す時は、まだよかつた。其処に、僅でも希望があつた。が、夕方、その日の奔走が全く空に帰して、悄然と帰つて来る父を迎へるのは、何うにも堪らなかつた。父と娘とは、黙つて一言も、交はさなかつた。お互の苦しみを、お互に知つてゐた。
今迄は、元気であつた父も、折々は嗟嘆の声を出すやうになつた。夕方の食事が済んで、父娘が向ひ合つてゐる時などに、父は娘に詫びるやうに云つた。
「皆、お父様が悪かつたのだ。自分の志ばかりに、気を取られて、最愛の子供のことまで忘れてゐたのぢや。俺《わし》の家を治めることを忘れたために、お前までがこんな苦しい思ひをするのだ。」
父の耿々《かう/\》の気が――三十年火のやうに燃えた野心が、かうした金の苦労のために、砕かれさうに見えるのが、一番瑠璃子には悲しかつた。
父の友人や知己は、大抵は、父のために、三度も四度も、迷惑をかけさせられてゐた。父が、金策の話をしても、彼等は体よく断つた。断られると、潔癖な父は、二度と頼まうとはしなかつた。
六月が二十五日となり、二十七日となつた。連日の奔走が無駄になると、父はもう自棄《やけ》を起したのであらう。もう、ふツつりと出なくなつた。幡随院長兵衛が、水野の邸に行くやうに、父は怯《わる》びれもせず、悪魔が、下す毒手を、待ち受けてゐるやうだつた。
今年の春やつと、学校を出たばかりの瑠璃子には、父が連日の苦悶を見ても、何うしようと云ふ術もなかつた。彼女は、たゞオロ/\して、一人心を苦しめる丈《だけ》だつた。
彼女の小さい胸の苦しみを、打ち明けるべき相手としては、たゞ恋人の直也がある丈だつた。が、彼女は恋人に、まだ何も云つてゐなかつた。
家の窮状を訴へるためには、いろ/\な事情を云はなければならない。荘田の恨みの原因が、直也の罵倒であることも云はなければならない。直也の父が、不倫な求婚の賤しい使者を務めたことも云はなければならない。それでは、恋人に訴へるのではなくして、恋人を責めるやうな結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、瑠璃子にもよく分つてゐた。自分のふとした罵倒が、瑠璃子父娘に、どんなに禍《わざはひ》してゐるかと云ふことを聴けば、熱情な恋人は、どんな必死なことをやり出すかも分らない。さう思ふと、瑠璃子は、出来る丈は、自分の胸一つに収めて、恋人にも知らすまいと思つた。
父や瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉に、否凡ての人間の喜怒哀愁とは、何の渉《かゝは》りもなく、六月は暮れて行つた。
二
もう、明日が最後の日といふ六月二十九日の朝だつた。荘田勝平の代理人と云ふ男が、瑠璃子の家を訪づれた。鷲の嘴《くちばし》のやうな鼻をした四十前後の男だつた。詰襟の麻の洋服を着て、胸の辺《あたり》に太い金の鎖を、仰々しくきらめかしてゐた。
父は
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