ぢやが、折角来て呉れたものだから、無碍《むげ》に断るのもと、思つたから、与《や》らんこともないと云ふと、段々相手の男のことを話すのぢや。人を馬鹿にして居る。四十五で、先妻の子が、二人まであると云ふのぢや。俺《わし》は、頭から怒鳴り付けてやつたのぢや。すると、彼《あ》の男が、オヅ/\何を云ひ出すかと思ふと、支度金は三十万円まで出すと、云ふのぢや。俺は憤然と立ち上つて、彼《あ》の男を応接室の外へ引きずり出したのだ。」父の声は、わな/\顫へた。
「此年になるまで、こんな侮辱を受けたことはない。貧乏はしてゐる。政戦三十年、家も邸も抵当に入つてゐる。が、三十万円は愚か、千万一億の金を積んでも、娘を金のために、売るものか。」
父は、傍《はた》の見る眼も、傷ましいほど、激昂してをる。年老いた肉体は、余りに激しい憤怒のために今にも砕けさうに、緊張してゐる。瑠璃子も、胸が一杯になつた。父の怒を、尤もだと思つた。が、その怒《いかり》を宥《なだ》むべき何の言葉も、思ひ浮ばなかつた。
が、それに付けても、杉野子爵は、何の恨《うらみ》があつて、かうした侮辱を、年老いた父に与へるのだらう。さう思ふと、瑠璃子の胸にも、張り裂けるやうな怒りが、湧いて来た。が、それが恋人の父であると、思ひ返すと、身も世もないやうな悲しみが伴つた。
「彼《あ》の男は、金のために、あんなに賤しくなつてしまつたのだ。政商連と結託して、金のためにばかり、動いてゐるらしいのだ。今日の縁談なども、纏まれば幾何《いくら》と云ふ、口銭が取れる仕事だらう。ハヽヽヽヽ。」父は、怒を嘲《あざけり》に換へながら、蔑むやうに哄笑した。
「何でも、今日の縁談の申込み手と云ふのが、ホラ瑠璃さんも行つたゞらう、此間園遊会をやつた荘田と云ふ男らしいのだ。」
父は何気なく云つた。が、荘田と云ふ名を聞くと、瑠璃子は直ぐ、豹の眼のやうに恐ろしい執拗なその男の眼付を思ひ出した。冷静な、勝気な、瑠璃子ではあつたけれども、悪魔に頬を、舐められたやうな気味悪さが、全身をゾク/\と襲つて来た。
二
荘田と云ふ名前を聴くと、瑠璃子が気味悪く思つたのも、無理ではなかつた。彼女は、その人の催した園遊会で、妙な機《はづ》みから、激しい言葉を交して以来、その男の顔付や容子が、悪夢の名残りのやうに、彼女の頭から離れなかつた。
太いガサツな眉、二段に畳まれてゐる鼻、厚い唇、いかにも自我の強さうな表情、その顔付を思ひ出して見る丈《だけ》でも、イヤな気がした。そんな男と、云ひ争ひをしたことが、執念深い蛇とでも、恨を結び合つたやうに、何となく不安だつた。処が、その男が意外にも自分に婚を求めてゐる。さう思ふ丈でも、彼女は妙な悪寒を感じた。よく伝説の中にある、白蛇などに見込まれた美少女のやうに。
瑠璃子は、相手の心持が、容易には分らなかつた。容易に、その事を信ずることが出来なかつた。
「本当でございますの? 杉野さんが、本当に荘田と仰しやつたのでございますの?」
「確かに、あの男だと云はないが、何《ど》うも彼奴《あいつ》の事らしい。杉野はお前の話を始める前に、それとなく荘田の事を賞めてゐるのだ。何うも彼奴らしい。金が出来たのに、付け上つて、華族の娘をでも貰ひたい肚らしいが、俺の娘を貰ひに来るなんて狂人の沙汰だ!」
父は相手の無礼を怒つたものゝ、先方に深い悪意があらうとは思はないらしく、先刻から見ると余程機嫌が直つてゐるらしかつた。
が、瑠璃子はさうではなかつた。此の求婚を、気紛れだとか、冗談だとか、華族の娘を貰ひたいと云ふやうな単なる虚栄心だとは、何《ど》うしても思はれなかつた。父の一喝に逢つて、這々《はふ/\》の体で、逃げ帰つた杉野子爵は、ほんの傀儡で、その背後に怖ろしい悪魔の手が、動いてゐることを感ぜずにはゐられなかつた。さう思つて来ると、八重桜の下で、自分達二人を、睨み付けた恐ろしい眼が、アリアリと浮んで来た。さう思つて来ると、自分の恋人の父を、自分に対する求婚の使者にした相手のやり方に、悪魔のやうな意地悪さを、感ぜずにはゐられなかつた。
瑠璃子は思つた。自分が傷つけた蛇は、ホンの僅な恨を酬いるために猛然と、襲ひかゝつてゐるのだと。が、さう思ふと、瑠璃子は却つて、必死になつた。来るならば来て見よ。あんな男に、指一つ触れさせてなるものか。彼女は心の中《うち》でさう決心した。
「いや、杉野の奴一喝してやつたら、一縮みになつて帰つたよ。あゝ云つて置けば、二度と顔向けは出来ないよ。」
父は、もう凡てが済んでしまつたやうに、何気なく云つた。が、瑠璃子にはさうは思はれなかつた。一度飛び付き損つた蛇は、二度目の飛躍の準備をしてゐるのだ。いや、二度目どころではない。三度目四度目五度目十度目の準備まで整つてゐるのかも知れ
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