ない。さう思ふと、瑠璃子は又更に自分の胸の処女の誇が、烈火のやうに激しく燃えるのを感じた。
「本当に口惜しうございます。あんな男が妾《わたくし》を。それに杉野さんが、そんな話をお取次ぎになるなんて、本当にひどいと思ひますわ。」
瑠璃子は、興奮して、涙をポロ/\落しながら云つた。それは口惜しさの涙であり、怒《いかり》の涙だつた。
「だから、聴かない方が、いゝと云つたのだ。さうだ! 杉野が怪しからんのだ。あんな馬鹿な話を取次ぐなんて、彼奴が怪しからんのだ。が、あんな堕落した人間の云ふことは、気に止めぬ方がいゝ。縁談どころか、瑠璃さんには、何時までも、茲《こゝ》にゐて貰ひたいのだ。殊に、光一があゝなつてしまへば、お父様の子はお前|丈《だけ》なのだ。百万円はおろか、お父様の首が飛んでも、お前を手離しはしないぞ。ハヽヽヽ。」
父は、瑠璃子を慰めるやうに、快活に笑つた。瑠璃子の心も、父に対する愛で、一杯になつてゐた。何時までも、父の傍にゐて、父の理解者であり、慰安者であらうと思つた。
「妾《わたくし》もさう思つてゐますの。何時までも、お父様のお傍《そば》にゐたいと思つてゐますの。」
さう云つて瑠璃子は初めてニツコリ笑つた。嵐の過ぎ去つた後の平和を思はせるやうな、寂しいけれども静かな美しい微笑だつた。
三
二つの忌はしい事件が、渦を捲いて起つた日から、瑠璃子の家は、暴風雨の吹き過ぎた後のやうな寂しさに、包まれてしまつた。
家出した兄からは、ハガキ一つ来なかつた。父は父でおくび[#「おくび」に傍点]にも兄の事は云はなかつた。人を頼んで、兄の行方を探すとか、警察に捜索願を出すなどと云ふことを、父は夢にも思つてゐないらしかつた。自分を捨てた子の為には、指一つ動かすことも、父としての自尊心が許さないらしかつた。
かうした父と兄との間に挟まつて、たゞ一人、心を傷めるのは瑠璃子だつた。彼女は、父に隠れて兄の行方をそれとなく探つて見た。兄が、その以前父に隠れて通つたことのある、小石川の洋画研究所も尋ねて見た。兄が、予てから私淑してゐる二科会の幹部のN氏をも訪ねて見た。が、何処でも兄の消息は判らなかつた。
兄の友達の二三にも、手紙で訊き合して見た。が、どの返事も定まつたやうに、兄に暫らく会つたことがないと云ふやうな、頼りない返事だつた。縦令《たとひ》父とは不和になつても、自分丈には安否位は、知らせて呉れてもよいものと、彼女は兄の気強さが恨めしかつた。が、彼女の心を傷ましめることは外にもう一つあつた。それは、これまで感情の疎隔してゐた父と杉野子爵との間が、到頭最後の破裂に達したことである。あんな事件が起つた以上、再び元通りになることは、殆ど絶望のやうに思はれた。従つて、自分達の恋が、正式に認められるやうな機《をり》は、永久に来ないやうに思はれた。自分が、恋を達するときは、やつぱり兄と同じやうに、父に背かなければならぬ時だと思ふと、彼女の心は暗かつた。
突然な非礼な求婚が、斥けられてから、それに就いては何事も起らなかつた。十日経ち二十日経つた、父は、その事をもうスツカリ忘れてしまつたやうだつた。が、瑠璃子にはそれが中断された悪夢のやうに、何となく気がかりだつたが、一度|限《ぎり》で何の音沙汰もないところを見ると、その求婚を、恐ろしい復讐の企てでもあるやうに思つたのは、自分の邪推であつたやうにさへ、瑠璃子は思つた。
その裡に五月が過ぎ六月が来た。政治季節の外は、何の用事もない父は、毎日のやうに書斎にばかり、閉ぢ籠もつてゐた。瑠璃子は何うかして、父を慰めたいと思ひながらも、父の暗い眉や凋びた口の辺《あたり》を見ると、たゞ涙ぐましい気持が先に立つて、話しかける言葉さへ、容易に口に浮ばなかつた。兄がゐる裡は、父と時々争ひが起つたものゝ、それでも家の中が、何となく華やかだつた。父娘二人になつて見ると、ガランとした洋館が修道院か何かのやうに、ジメ/\と淋しかつた。
六月のある晴れた朝だつた。兄が家出した悲しみも、不快な求婚に擾された心も、だん/\薄らいで行く頃だつた。瑠璃子は、その朝、顔を洗つてしまふと平素《いつも》の[#「平素《いつも》の」は底本では「平素《いつも》もの」]通り、老婢が自分の室の机の上に置いてある郵便物を、取り上げて見た。
父宛に来た書状も、一通り目を通すのが、彼女の役だつた。その朝は、父宛の書留が一通|雑《ま》じつてゐた。それは内容証明の書留だつた。裏を返すと、見覚えのある川上万吉と云ふ金貸業者の名前だつた。
『あゝまた督促かしら。』と、瑠璃子は思つた。さうした書状を見る毎に、平素《いつも》は感じない家の窮状が彼女にもヒシ/\感ぜられるのであつた。
彼女は、何気なく封を破つた。が、それは平素《いつも》の督促状
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