暗い翳が、明らさまに火を放つて、爆発を来したらしいのである。
「一体|何《ど》うしたのでございます。そんなにお腹立ち遊ばして。」
瑠璃子は、父の顔を見上げながら、オヅ/\訊いた。父は口にするさへ、忌々《いま/\》しさうに、
「訊くな。訊くな。汚らはしい。俺《わし》達を侮辱してゐる。俺《わし》ばかりではない、お前までも侮辱してゐるのだ。」と、歯噛《はがみ》をしないばかりに激昂してゐるのだつた。
自分までもと、云はれると、瑠璃子は更に不安になつた。自分のことを、一体|何《ど》う云つたのだらう。自分に就いて、一体何を云つたのだらう。恋人の父は、自分のことを、一体|何《ど》う侮辱したのだらう。さう考へて来ると、瑠璃子は父の機嫌を恐れながらも、黙つてゐる訳には行かなかつた。
「一体どんなお話が、ございましたの。妾《わたくし》の事を、杉野さんは何《ど》う仰《おつ》しやるのでございますか。」
「訊くな。訊くな。訊かぬ方がいゝ。聞くと却つて気を悪くするから。あんな賤しい人間の云ふことは、一切耳に入れぬことぢや。」
やゝ興奮の去りかけた父は、却つて娘を宥《なだ》めるやうに優しく云ひながら、二階の居間へ行くために階段を上りかけた。父は、杉野子爵を賤しい人間として捨てゝ置くことが出来た。が、瑠璃子には、それは出来なかつた。どんなに、子爵が賤しくても、自分の恋人の父に違《ちがひ》なかつた。その人が、自分のことを、何《ど》う云つたかは、瑠璃子に取つては是非にも訊きたい大事な事だつた。
「でも、何と仰《おつ》しやつたか知りたいと思ひますの。妾《わたくし》のことを何と仰《おつ》しやつたか、気がかりでございますもの。」
瑠璃子は、父を追ひながら、甘えるやうな口調で云つた。娘の前には、目も鼻もない父だつた。母のない娘のためには、何物も惜しまない父だつた。瑠璃子が執拗に二三度訊くと、どんな秘密でも、明しかねない父だつた。
「なにも、お前の悪口を云つたのぢやない。」
父は憤怒を顔に現しながらも、娘に対する言葉|丈《だけ》は、優しかつた。
「ぢや、何うして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。」
「それを侮辱するから怪《け》しからないのだ。俺を侮辱するばかりでなく、清浄潔白なお前までも侮辱してかゝるのだ。」
父は、又杉野子爵の態度か言葉かを思ひ出したのだらう、その人が、前にでもゐるやうに、拳を握りしめながら、激しい口調で云つた。
「何《ど》うしたと云ふのでございます、お父様、ハツキリと仰《おつ》しやつて下さいまし、一体どんなお話で、あの方が、私の事を何う仰しやつたのです。一体どんな用事で、入《い》らしつたのでございます。」
瑠璃子も、可なり興奮しながら、本当のことを知りたがつて、畳みかけて訊いた。
「彼の男は、お前の縁談があると云つて来たのだ。」父の言葉は意外だつた。
「妾《わたくし》の縁談!」瑠璃子は、さう云つたまゝ、二の句が次げなかつた。彼女は化石したやうに、父の書斎の入口に立ち止まつた。父は、瑠璃子の駭《おどろ》きに、深い意味があらうとは、夢にも知らずに、興奮に疲れた身体を、安楽椅子に投げるのであつた。
買ひ得るか
一
父から、杉野子爵の来訪が、縁談の為であると、聞かされると、瑠璃子は電火にでも、打たれたやうに、ハツと駭《おどろ》いた。
やつぱり、自分の子供らしい想像は当つたのだ。杉野子爵は子のために、直接話を進めに来たのだ。その話の中に、子爵の不用意な言葉か、不遜の態度かが、潔癖な父を怒らしたに違《ちがひ》ない。さう思ふと、瑠璃子はあまりに潔癖過ぎる父が急に恨めしくなつた。少しも妥協性のない、一徹な父が恨めしかつた。自分の一生の運命を狂はすかも知れない、父の態度が恨めしかつた。瑠璃子は父に抗議するやうに云つた。
「縁談のお話が、何《ど》うして妾《わたくし》を、侮辱することになりますの。またそんなお話なら、一応|妾《わたくし》にも、話して下さつてから、お断りになつても、遅くはないと思ひますわ。」
瑠璃子は、誰に対しても、自己を主張し得る女だつた。彼女は、父にでも兄にでも恋人にでも、自己を主張せずには、ゐられない女だつた。
瑠璃子の抗議を、父は憫むやうに笑つた。
「縁談! ハヽヽヽヽ。普通の縁談なら、無論瑠璃さんにも、よく相談する。が、あの男の縁談は、縁談と云ふ名目で、貴女《あなた》を買ひに来たのぢや。金を積んで、貴女を買ひに来たのぢや。怪しからん! 俺《わし》の娘を!」
父の眼は、激怒のために、狂はしいまでに、輝いた。さう云はれると、瑠璃子は、一言もなかつたが、さうした縁談の相手は、一体誰だらうかと、思つた。
「彼《あ》の男が来て娘をやらんかと云ふ。平素から、快く思つてゐない男
前へ
次へ
全157ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング