ソレと許すだらうか。心の中で、賤しんでゐる者の子息に、最愛の娘を与へるだらうか。子は子である。父は父である。之《こ》れ位の事理の分らない父ではない。が、兄が突然家出して、さなきだに淋しい今、自分を手離して、他家《よそ》へやるだらうか。さう思ふと、瑠璃子の心に伸びた空想の翼は、また忽ち半《なかば》以上切り取られてしまつた。が、万一さうなら、又万一父が容易に承諾したら?
「あの! 杉野子爵がお見えになりました。」彼女の息は可なりはづんでゐた。

        六

 父は娘の心を知らなかつた。杉野子爵の突然の来訪を、迷惑がる表情があり/\と動いた。
「杉野! ふーむ。」父は苦り切つたまゝ容易に立たうとはしなかつた。
 父が、杉野子爵に対してかうした感情を持つてゐる以上、又兄の家出と云ふ傷ましい事件が起つてゐる以上、縦令《たとひ》子爵の来訪が、瑠璃子の夢見てゐる通《とほり》の意味を持つてゐたにしろ、容易に纏まる筈はなかつた。さう考へると、彼女の心は、墨を流したやうに暗くなつてしまつた。
「仕方がない! お通しなさい!」さう云つたまゝ、父は羽織を着るためだらう、階下《した》の部屋へ下りて行つた。
 瑠璃子は、恋人の父と自分の父との間に、まつはる不快な感情を悲しみながら、玄関へ再び降りて行つた。
「お待たせいたしました。何うぞお上り下さいませ。」
「いや、どうも突然伺ひまして。」と、子爵は如才なく挨拶しながら先に立つて、応接室に通つた。
 古いガランとした応接室には、何の装飾もなかつた。明治十幾年に建てたと云ふ洋館は、間取りも様式も古臭く旧式だつた。瑠璃子は、客を案内する毎に、旧式の椅子の蒲団《クション》が、破れかけてゐることなどが気になつた。
 父は、直ぐ応接室へ入つた。心の中の感情は可なり隔たつてゐたが、面と向ふと、遉《さすが》に打ち解けたやうな挨拶をした。瑠璃子は、茶を運んだり、菓子を運んだりしながらも、主客の話が気にかゝつた。が、話は時候の挨拶から、政界の時事などに進んだまゝ用向きらしい話には、容易に触れなかつた。
 立ち聞きをするやうな、はしたない[#「はしたない」に傍点]事は、思ひも付かなかつた。瑠璃子は、来客が気になりながらも、自分の部屋に退いて、不安な、それかと云つて、不快ではない心配を続けてゐた。
 恋人の顔が、絶えず心に浮かんで来た。過ぎ去つた一年間の、恋人とのいろ/\な会合が、心の中に蘇へつて来た。どの一つを考へても、それは楽しい清浄な幸福な思出だつた。二人は火のやうな愛に燃えてゐた。が、お互に個性を認め合ひ、尊敬し合つた。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく湿《うる》んでゐる公園の木下暗《このしたやみ》を、ベエトーフェンの『月光曲』を聴いた感激を、語り合ひながら、辿つた秋の一夜の事も思ひ出した。新緑の戸山ヶ原の橡《とち》の林の中で、その頃読んだトルストイの「復活」を批評し合つた初夏の日曜の事なども思ひ出した。恋人であると共に、得難い友人であつた。彼女の趣味や知識の生活に於ける大事な指導者だつた。
 恋人の凜々しい性格や、その男性的な容貌や、その他いろ/\な美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。若《も》し子爵の来訪の用向きが、自分の想像した通りであつたら、(それが何と云ふ子供らしい想像であらう)とは、打消しながらも、瑠璃子の真珠のやうに白い頬は、見る人もない部屋の中にありながら、ほのかに赤らんで来るのだつた。
 が、来客の話は、さう永くは続かなかつた。瑠璃子の夢のやうな想像を破るやうに、応接室の扉《ドア》が、父に依つて荒々しく開かれた。瑠璃子は、客を送り出すため、急いで玄関へ出て行つた。
 見ると父は、兄の家出を見送つた時以上に、蒼い苦り切つた顔をしてゐた。杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、微笑の影も見せず、周章として追はれるやうに玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てゝ、あわたゞしく去つてしまつた。
 父は、自動車の後影を憎悪と軽蔑との交つた眼付で、しばらくの間見詰めてゐた。
「お父様どうか遊ばしたのですか。」瑠璃子は、おそる/\父に訊いた。
「馬鹿な奴だ。華族の面汚しだ。」父は、唾でも吐きかけるやうに罵つた。

        七

 杉野子爵に対する、父の燃ゆるやうな憎悪の声を聞くと、瑠璃子は自分の事のやうに、オドオドしてしまつた。胸の中に、ひそかに懐いてゐた子供らしい想像は、跡形もなく踏み躙られてゐた。踏んでゐた床が、崩れ落ちて、其儘底知れぬ深い淵へ、落ち込んで行くやうな、暗い頼りない心持がした。之迄《これまで》でさへ、父と父との感情に、暗い翳のあることは、恋する二人の心を、どんなに傷《いたま》しめたか分らない。それだのに、今日はその
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