のぞき込んだ。彼女が予期した通りの光景が其処にあつた。長身の父は威丈高に、無言のまゝ、兄を睨み付けて立つてゐた。痩せた面長な顔は、白く冷めたく光つてゐる。腰の所へやつてゐる手は、ブル/\顫へてゐる。兄は兄で、昂然とそれに対してゐた。たゞさへ、蒼白い顔が、激しい興奮のために、血の気を失つて、死人のやうに蒼ざめてゐる。
 父と子とは、思想も感情もスツカリ違つてゐたが、負けぬ気の剛情なところ丈《だけ》が、お互に似てゐた。父子《おやこ》の争ひは、それ丈《だけ》激しかつた。
 二人の間には、絵具のチューブが、滅茶苦茶に散つてゐた。父の足下には、三十号の画布《カンバス》が、枠に入つたまゝ、ナイフで横に切られてゐた。その上に描かれてゐる女の肖像も、無残にも頬の下から胸へかけて、一太刀浴びてゐるのだつた。
 さうした光景を見た丈《だけ》で、瑠璃子の胸が一杯になつた。父が、此上兄を恥《はづか》しめないやうに、兄が大人しく出て呉れるやうにと、心|私《ひそ》かに[#「私《ひそ》かに」は底本では「私《ひそか》かに」]祈つてゐた。
 が、父と兄との沈黙は、それは戦ひの後の沈黙でなくして、これからもつと怖しい戦ひに入る前の沈黙だつた。
 画布《カンバス》までも、引き裂いた暴君のやうな父の前に、真面目な芸術家として兄の血は、熱湯のやうに、沸いたのに違ひなかつた。いつもは、父に対して、冷然たる反抗を示す兄だつたが、今日は心の底から、憤つてゐるらしかつた。憤怒の色が、アリ/\とその秀でた眉のあたりに動いてゐた。
「考へて見るがいゝ。堂々たる男子が、画筆などを弄んでゐて何《ど》うするのだ。」父は、今迄張り詰めてゐた姿勢を、少しく崩しながら、苦い物をでも吐き出すやうに云つた。
「考へて、見る迄もありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答へも冷たく鋭かつた。
「馬鹿を云へ! 馬鹿を?[#「?」はママ]」父は、又カツとなつてしまつた。「画などと云ふものは、男子が一生を捧げてやる仕事では決してないのだ。云はゞ余戯なのだ。なぐさみ[#「なぐさみ」に傍点]なのだ。お前が唐沢の家の嗣子でなければ、どんな事でも好き勝手にするがいゝ。が、俺《わし》の子であり、唐沢の家の嗣子である以上、お前の好き勝手にはならないのだ。唐沢の家には、画描きなどは出したくないのだ。俺の子は、画描きなどにはなつて貰ひたくないのだ!」
 父は、さう叫びながら、手近にある卓《デスク》の端を力委せに二三度打つた。瑠璃子には、父が貴族院の演壇で獅子吼する有様が、何処となく偲ばれた。が、相手が現在の子であることが、父の姿を可なり淋しいものにした。
「お前は、父が三十年来の苦闘を察しないのか。お前は、俺《わし》の子として、父の志を継ぐことを、名誉だとは思はないのか、俺の志を継いで、俺が年来の望みを、果させて呉れようとは思はないのか。お前は、唐澤の家の歴史を忘れたのか、お前にいつも話してゐる、お祖父様の御無念を忘れたのか。」
 それは、父が少し昂奮すれば、定《き》まつて出る口癖だつた。父は、それを常に感激を以て語つた。が、子はそれを感激を以て聞くことが、出来なかつた。唐澤の家が、三万石の小大名ではあつたが、足利時代以来の名家であるとか、維新の際には祖父が勤王の志が、厚かつたにも拘はらず、薩長に売られて、朝敵の汚名を取り、悶々の裡に憤死したことや、その死床で洩した『敵《かたき》を取つて呉れ。』といふ遺言を体して、父が三十年来貴族院で、藩閥政府と戦つて来たことなど、それは父にとつて重大な一生を支配する生活の刺戟だつたかも知れない。が、子に取つては、彼の画題となる一茎の草花に現はれてゐる、自然の美しさほどの、刺戟も持つてゐなかつた。時代が違つてゐ、人間が違つてゐた。何の共通点もない人間同士が、血縁でつながつてゐることが、何より大きい悲劇だつた。
「黙つてゐては分らない。何とか返事をなさい!」日本の大正の王《キング》リアは、かう云つて石のやうに黙つてゐる子に挑んだ。

        三

「お父さん!」兄は静《しづか》に頭を擡《あ》げた。平素は、黙々として反抗を示す丈《だけ》の兄だつたが、今日は徹底的に云つて見ようといふ決心が、その口の辺に動いてゐた。「貴方《あなた》が、幾何《いくら》仰《おつ》しやつても、僕は政治などには、興味が向かないのです。殊に現在のやうな議会政治には、何の興味も持つてゐないのです。僕は、お父さんの仰《おつ》しやるやうに、法科を出て政治家になるなどと云ふことには、何の興味もないのです。」兄の言葉は、針のやうに鋭く澄んで来た。
「もう少し待つて下さい。もう少し、気長に私のすることを見て居て下さい。その中に、画を描くことが、人間としてどんなに立派な仕事であるか、堂々たる男子の事業として恥かしくないか
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