づま》のやうに、彼の心にある悪魔的な考へが思ひ浮かんだ。その考へは、電のやうに消えないで、徐々に彼の頭に喰ひ入つた。
 まだ、春の日は高かつた。彼が招いた人達は園内の各所に散つて、春の半日を楽しく遊び暮してゐる。が、その人達を招いた彼|丈《だけ》は、たゞ一人怏々たる心を懐いて、長閑《のどか》な春の日に、悪魔のやうな考へを、考へてゐる。
「あら、まだ茲《こゝ》にいらしつたの、方々探したのよ。」
 突如、後に騒がしい女の声がした。先刻の芸妓達が帰つて来たのである。
「さあ! 彼方《あつち》へいらつしやい。お客様が皆、探してゐるのよ。」二三人彼のモーニングコートの腕に縋つた。
「あゝ行くよ行くよ。行つて酒でも飲むのだ。」彼は、気の抜けたやうに、呟きながら、芸妓達に引きずられながら、もう何の興味も無くなつた来客達の集まつてゐる方へ拉《らつ》せられた。


 父と子

        一

『またお父様と兄様の争ひが始まつてゐる。』さう思ひながら、瑠璃子は読みかけてゐたツルゲネフの『父と子』の英訳の頁《ページ》を、閉ぢながら、段々高まつて行く父の声に耳を傾けた。
『父と子』の争ひ、もつと広い言葉で云へば旧時代と新時代との争ひ、旧思想と新思想との争ひ、それは十九世紀後半の露西亜《ロシア》や西欧諸国|丈《だけ》の悩みではなかつた。それは、一種の伝染病として、何時の間にか、日本の上下の家庭にも、侵入してゐるのだつた。
 五六十になる老人の生活目標と、二十年代の青年の生活目標とは、雪と炭のやうに違つてゐる。一方が北を指せば、一方は西を指してゐる。老人が『山』と云つても、青年は『川』とは答へない。それだのに、老人は自分の握つてゐる権力で、父としての権力や、支配者としての権力や、上長者としての権力で、青年を束縛しようとする。西へ行きたがつてゐる者を、自分と同じ方向の、北へ連れて行かうとする。其処から、色々な家庭悲劇が生れる。
 瑠璃子は、父の心持も判つた。兄の心持も判つた。父の時代に生れ、父のやうな境遇に育つたものが、父のやうな心持になり、父のやうな目的のために戦ふのは、当然であるやうに想はれた。が、兄のやうな時代に生れ、兄のやうな境遇に育つたものが、兄のやうに考へるのも亦当然であるやうに思はれた。父も兄も間違つてはゐなかつた。お互に、間違つてゐないものが、争つてゐる丈に、その争ひは何時が来ても、止むことはなかつた。何時が来ても、一致しがたい平行線の争ひだつた。
 母が、昨年死んでから、淋しくなつた家庭は、取り残された人々が、その淋しさを償ふために、以前よりも、もつと睦まじくなるべき筈だのに、実際はそれと反対だつた。調和者《ピイスメイカア》としての母がゐなくなつた為、兄と父との争ひは、前よりも激しくなり、露骨になつた。
「馬鹿を云へ! 馬鹿を云へ!」
 父のしはがれた張り裂けるやうな声が、聞えた。それに続いて、何かを擲《なげう》つやうな物音が、聞えて来た。
 瑠璃子は、その音をきくと、何時も心が暗くなつた。また父が兄の絵具を見付けて、擲つてゐるのだ。
 さう思つてゐると、又カンバスを引き裂いてゐるらしい、帛《きぬ》を裂く激しい音が聞えた。瑠璃子は、思はず両手で、顔を掩うたまゝかすかに顫へてゐた。
 芸術と云つたやうなものに、粟粒ほどの理解も持つてゐない父が悲しかつた。絵を描くことを、ペンキ屋が看板を描くのと同じ位に卑しく見貶《みくだ》してゐる父の心が悲しかつた。それと同じやうに、芸術をいろ/\な人間の仕事の中で、一番|尊《たつと》いものだと思つてゐる、兄の心も悲しかつた。父から、描けば勘当だと厳禁されてゐるにも拘はらず、コソ/\と父の眼を盗んで、写生に行つたり、そつと研究所に通つたりする兄の心が、悲しかつた。が、何よりも悲劇であることは、さうしたお互に何の共鳴も持つてゐない人間同士が、父と子であることだつた。父が、卑しみ抜いてゐることに、子が生涯を捧げてゐることだつた。父の理想には、子が少しも同感せず、子の理想には父が少しも同感しないことだつた。
 カンバスが、引き裂かれる音がした後は、暫らくは何も聞えて来なかつた。争ひの言葉が聞えて来る裡は、それに依つて、争ひの経過が判つた。が、急に静《しづか》になつてしまふと、却つて妙な不安が、聞いてゐる者の心に起つて来る。瑠璃子はまた父が、興奮の余り心悸が昂進して、物も云へなくなつてゐるのではないかと思ふと、急に不安になつて来て、争ひの舞台《シーン》たる兄の書斎の方へ、足音を忍ばせながらそつと近づいて行つた。

        二

 瑠璃子は、そつと足音を立てないやうに、縁側《ヴェランダ》を伝うて兄の書斎へ歩み寄つた。とゞろく胸を押へながら縁側《ヴェランダ》に向いてゐる窓の硝子《ガラス》越しに、そつと室内を
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