を、お父さんにも、お目にかけ得る時が来るだらうと思ふのです。」
「あゝよして呉れ!」父は排《はら》ひ退けるやうに云つた。「そんな事は聞きたくない。馬鹿な! 画描きなどが、画を描くことなどが、……」父は苦々しげに言葉を切つた。
「お父さんには、幾何《いくら》云つても解らないのだ。」兄も投げ捨てるやうに云つた。
「解つてたまるものか。」父の手がまたかすかに顫へた。
二人が、敵《かたき》同士のやうに黙つて相対峙して居る裡に、二三分過ぎた。
「光一!」父は改まつたやうに呼びかけた。
「何です!」兄も、それに応ずるやうに答へた。
「お前は、今年の正月|俺《わし》が云つた言葉を、まさか忘れはしまいな。」
「覚えてゐます。」
「覚えてゐるか、それぢやお前は、此の家にはをられない訳だらう。」
兄の顔は、憤怒のために、見る/\中に真赤になり、それが再び蒼ざめて行くに従つて、悲壮な顔付になつた。
「分りました。出て行けと仰《おつ》しやるのですか。」怒のために、兄はわな/\顫へてゐた。
「二度と、画を描くと、家には置かないと、あの時云つて置いた筈だ。お前が、俺《わし》の干渉を受けたくないのなら、此家を出て行く外はないだらう。」父の言葉は鉄のやうに堅かつた。
瑠璃子は、胸が張り裂けるやうに悲しかつた。一徹な父は、一度云ひ出すと、後へは引かない性質《たち》だつた。それに対する兄が、父に劣らない意地張だつた。彼女が、常々心配してゐた大破裂《カタストロフ》がたうとう目前に迫つて来たのだつた。
父の言葉に、カツと逆上してしまつたらしい兄は、前後の分別もないらしかつた。
「いや承知しました。」
さう云ふかと思ふと、彼は俯きながら、狂人のやうに其処に落ち散つてゐる絵具のチューブを拾ひ始めた。それを拾つてしまふと、机の引き出しを、滅茶苦茶に掻き廻し始めた。机の上に在つた二三冊のノートのやうなものを、風呂敷に包んでしまふと、彼は父に一寸目礼して、飛鳥のやうに室《へや》から駈け出さうとした。
父が、駭《おどろ》いて引き止めようとする前に、狂気のやうに室内に飛び込んだ瑠璃子は、早くも兄の左手《ゆんで》に縋つてゐた。
「兄さん! 待つて下さい!」
「お放しよ。瑠璃ちやん!」
兄は、荒々しく叱するやうに、瑠璃子の手をもぎ放した。
瑠璃子が、再び取り縋らうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光の如く馳け下つてゐた。
「兄さん! 待つて下さい!」
瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳け下つたとき、帽子も被らずに、玄関から門の方へ足早に走つてゐる兄の後姿が、チラリと見えた。
四
兄の後姿が見えなくなると、瑠璃子はよゝと泣き崩れた。張り詰めてゐた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬を湿《うる》ほした。
母が亡くなつてからは、父子三人の淋しい家であつた。段々差し迫つて来る窮迫に、召使の数も減つて、たゞ忠実な老婢と、その連合の老僕とがゐる丈《だけ》だつた。
それだのに、僅かしか残つてゐない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるやうに、兄がゐなくなる。父と兄とは、水火のやうに、何処まで行つても、調和するやうには見えなかつたけれども、兄と瑠璃子とは、仲のよい兄妹だつた。母が亡くなつてからは、更に二人は親しみ合つた。兄はたゞ一人の妹を愛した。殊に父と不和になつてから、肉親の愛を換し得るのはたゞ妹だけだつた。妹もたゞ一人の兄を頼つた。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでゐた。瑠璃子には父の一徹も悲しかつた。兄の一徹も悲しかつた。
が、何よりも気遣はれたのは、着のみ着の儘で、飛び出して行つた兄の身の上である。理性の勝つた兄に、万一の間違があらうとは思はれなかつた。が、貧乏はしてゐても、華族の家に生れた兄は、独立して口を糊《すご》して行く手段を知つてゐる訳はなかつた。が、一時の激昂のために、カツと飛び出したものゝ屹度《きつと》帰つて来て下さるに違《ちがひ》ない。或は麻布の叔母さんの家にでも、行くに違《ちがひ》ない。やつと、さう気休めを考へながら、瑠璃子は涙を拭ひ拭ひ、階段を上つて行つた。二階にゐる父の事も、気がかりになつたからである。
父はやつぱり兄の書斎にゐた。先刻と寸分違はない位置にゐた。たゞ、傍にあつた椅子を引き寄せて、腰を下したまゝぢつと俯《うつむ》いてゐるのだつた。たつた一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時に湧いて来るのであつた。此の頃、交じりかけた白髪が急に眼に立つやうに思つた。
『歯が脱けて演説の時に声が洩れて困まる』と、此頃口癖のやうに云ふ通《とほり》、口の辺《あたり》が淋しく凋びてゐるのが、急に眼に付くやうに思つた。
一生を通じて、やつて来た仕事が、自分
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