ぎた。たとひ愛妻の静子が、いかに待ちあぐんでゐるにしても。
「まあ、よさう。電車で行けば訳はないのだから。」と、彼は心の裡で考へてゐる事とは、全く反対な理由を云ひながら、洋服を着た大男を振り捨てゝ、電車に乗らうとした。が、大男は執念《しふね》く彼を放さなかつた。
「まあ、一寸お待ちなさい。御相談があります。実は、熱海まで行かうと云ふ方があるのですが、その方と合乗《あひのり》して下さつたら、如何でせう、それならば大変格安になるのです。それならば、七円|丈《だけ》出して下されば。」
信一郎の心は可なり動かされた。彼は、電車の踏み段の棒にやらうとした手を、引つ込めながら云つた。「一体、そのお客とはどんな人なのだい?」
四
洋服を着た大男は、信一郎と同乗すべき客を、迎へて来る為に、駅の真向ひにある待合所の方へ行つた。
信一郎は、大男の後姿を見ながら思つた、どうせ、旅行中のことだから、どんな人間との合乗《あひのり》でもたかが三四十分の辛抱だから、介意《かまは》ないが、それでも感じのいゝ、道伴《みちづれ》であつて呉れゝばいゝと思つた。傲然とふんぞり返るやうな、成金風の湯治階級の男なぞであつたら、堪らないと思つた。彼はでつぷりと肥つた男が、実印を刻んだ金指輪をでも、光らせながら、大男に連れられて、やつて来るのではないかしらと思つた。それとも、意外に美しい女か何かぢやないかしらと思つた。が、まさか相当な位置の婦人が、合乗を承諾することもあるまいと、思ひ返した。
彼は一寸した好奇心を唆られながら、暫らくの伴侶たるべき人の出て来るのを、待つてゐた。
三分ばかり待つた後だつたらう。やつと、交渉が纏つたと見え、大男はニコ/\笑ひながら、先きに立つて待合所から立ち現れた。その刹那に、信一郎は大男の肩越に、チラリと角帽を被《かぶ》つた学生姿を見たのである。彼は同乗者が学生であるのを欣んだ。殊に、自分の母校――と云ふ程の親しみは持つてゐなかつたが――の学生であるのを欣んだ。
「お待たせしました。此の方です。」
さう云ひながら、大男は学生を、信一郎に紹介した。
「御迷惑でせうが。」と、信一郎は快活に、挨拶した。学生は頭を下げた。が、何《なん》にも物は云はなかつた。信一郎は、学生の顔を、一目見て、その高貴な容貌に打たれざるを得なかつた。恐らく貴族か、でなければ名門の子
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