停車場は少しも混雑しなかつた。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、暫らく斑《まだら》にたゆたつた丈《だけ》であつた。
 信一郎は、身支度をしてゐた為に、誰よりも遅れて車室を出た。改札口を出て見ると、駅前の広場に湯本行きの電車が発車するばかりの気勢《けはひ》を見せてゐた、が、その電車も、此の前の日曜の日の混雑とは丸切り違つて、まだ腰をかける余地さへ残つてゐた。が、信一郎はその電車を見たときにガタリガタリと停留場毎に止まる、のろ/\した途中の事が、直ぐ頭に浮かんだ。その上、小田原で乗り換へると行く手にはもつと難物が控へてゐる。それは、右は山左は海の、狭い崖端を、蜈蚣《むかで》か何かのやうにのたくつて行く軽便鉄道である。それを考へると、彼は電車に乗らうとした足を、思はず踏み止めた。湯河原まで、何うしても三時間かゝる。湯河原で降りてから、あの田舎道をガタ馬車で三十分、どうしても十時近くなつてしまふ。彼は汽車の中で感じたそれの十倍も二十倍も、いらいら[#「いらいら」に傍点]しさが自分を待つてゐるのだと思ふと、何うしても電車に乗る勇気がなかつた。彼は、少しも予期しなかつた困難にでも逢つたやうに急に悄気てしまつた。丁度その時であつた。つか/\と彼を追ひかけて来た大男があつた。
「もし/\如何です。自動車にお召しになつては。」と、彼に呼びかけた。
 見ると、その男は富士屋自動車と云ふ帽子を被《かぶ》つてゐた。信一郎は、急に援け舟にでも逢つたやうに救はれたやうな気持で、立ち止まつた。が、彼は賃銭の上の掛引のことを考へたので、さうした感情を、顔へは少しも出さなかつた。
「さうだねえ。乗つてもいゝね。安ければ。」と彼は可なり余裕を以て、答へた。
「何処までいらつしやいます。」
「湯河原まで。」
「湯河原までぢや、十五円で参りませう。本当なれば、もう少し頂くので厶《ござ》いますけれども、此方《こつち》からお勧めするのですから。」
 十五円と云ふ金額を聞くと、信一郎は自動車に乗らうと云ふ心持を、スツカリ無くしてしまつた。と云つて、彼は貧しくはなかつた。一昨年法科を出て、三菱へ入つてから、今まで相当な給料を貰つてゐる。その上、郷国《くに》にある財産からの収入を合はすれば、月額五百円近い収入を持つてゐる。が十五円と云ふ金額を、湯河原へ行く時間を、わづか二三時間縮める為に払ふことは余りに贅沢過
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