には青い月光の下に、俄に迸り出でたる泉のやうに、激した。その絶えんとして、又続く快い旋律が、目に見えない紫の糸となつて、信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎蜘蛛の吐き出す糸のやうに、蠱惑的に彼の心を囚へた。
彼の心に、鍵盤《キイ》の上を梭《をさ》のやうに馳けめぐつてゐる白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去つた刹那の白い輝かしい顔が浮んだ。
彼は時計を返すなどと云ふことより、兎に角も、夫人に逢ひたかつた。たゞ、訳もなく、惹き付けられた。たゞ、会ふことが出来さへすれば、その事|丈《だけ》でも、非常に大きな欣びであるやうに思つた。
躊躇してゐた足を、踏み返した。思ひ切つて門を潜つた。ピアノの音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のやうに、彼の心もあやしき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでゐる車寄せで、彼は一寸躊躇した。が、その次の瞬間に、彼の指はもう扉《ドア》の横に取付けてある呼鈴に触れてゐた。
茲まで来ると、ピアノの音は、愈《いよ/\》間近く聞えた。その冴えた触鍵《タッチ》が、彼の心を強く囚へた。
呼鈴を押した後で、彼は妙な息苦しい不安の裡に、一分ばかり待つてゐた。その時、小さい靴の足音がしたかと思ふと扉《ドア》が静かに押し開けられた。名刺受の銀の盆を手にした美しい少年が、微笑を含みながら、頭を下げた。
「奥さまに、一寸お目にかゝりたいと思ひますが、御都合は如何で厶《ござ》いませうか。」
彼は、さう云ひながら、一枚の名刺を渡した。
「一寸お待ち下さいませ。」
少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当りの二階を、栗鼠《りす》のやうに、すばしこく馳け上つた。
信一郎は少年の後を、ぢつと見送つてゐた。骰子《さい》は投げられたのだと云つたやうな、思ひ詰めた心持で、その二階に消える足音を聞いてゐた。
忽ちピアノの音が、ぱつたりと止んだ。信一郎は、その刹那に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知つたと云ふことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息を凝《こら》してゐた。が、ピアノの鳴る代りに、少年の小さい足音が、聞え始めた。愛嬌のよい微笑《わらひ》を浮べた少年は、トン/\と飛ぶやうに階段を馳け降りて来た。
「一体、何う云ふ御用で厶いませうか。一寸聞かしていた
前へ
次へ
全313ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング