さん、貴女《あなた》には、お話《はなし》しなかつたけれども、妾《わたし》青木さんから、一昨日の晩、突然結婚の申込を受けたのです。さうして、それに対する諾否のお返事を、今晩しようと云ふお約束をしたのです。結婚の申込を直接受けたことを、妾《わたし》本当に心苦しく思つてゐるのです。せめて、お返事をするとき丈《だけ》でも貴女《あなた》に立ち合つていただきたいと思ひましたの。」
 美奈子は、何と返事をしてよいか、皆目分らなかつた。たゞ、彼女にも、ボンヤリ分つたことは、美奈子が母と青年の密語を、立ち聴きしたことを、母が気付いてゐると云ふことだつた。美奈子が、居堪《ゐたゝ》まれなくなつて逃げ出したときの後姿を、母が気付いたに違ひないと云ふことだつた。
 さう思ふと、自分の心持が、明敏な母に、すつかり悟られてゐるやうに思はれて、美奈子は一言も返事をすることさへ出来なかつた。
 青年の顔は、真蒼になつてゐた。眼ばかりが、爛々と暗《やみ》の中に光つてゐた。
「ねえ! 青木さん。それでは、よく心を落ち着けて聴いて下さいませ! 妾《わたし》、あの、大変お気の毒ではございますけれども、よく/\考へて見ましたところ、貴君《あなた》のお申出《まうしいで》に応ずることが出来ないのでございます。」
 瑠璃子の言葉に、闘牛が、止《とゞ》めの一撃を受けたやうに、青年の細長い身体が、タヂ/\と後へよろめいた。
 彼は、両手で頭を抱へた。身体を左右に悶えた。呟きとも呻きとも付かないものが口から洩れた。
 美奈子は、見てゐるのに堪へなかつた。もし、母が傍にゐなかつたら、走り寄つて、青年の身体を抱へて、思ふさま慰めてやりたかつた。
 二分ばかり、青年の苦悶が続いた。が、彼はやつと、その苦悶から這ひ上つて来た。
 母から受けた恥辱のために、彼の眼は血走り、彼の眥《まなじり》は裂けてゐた。
「あなたのは、お断りになるのではなくて、僕を恥しめるのです。僕がそつとお願ひしたことを、美奈子さんの前で、貴女《あなた》にはお子さんかも知れないが、僕には他人です、その方の前で、恥しめるのです。拒絶ではなくして、侮辱です。僕は生れてから、こんな辱しめを受けたことはありません。」
 青年は、血を吐くやうに叫んだ。青年の言葉は、恨みと忿《いかり》のために狂ひ始めてゐた。
「貴女は、妖婦です、僕は敢て、さう申上げるのです。貴女を、貴婦
前へ 次へ
全313ページ中285ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング