つたのだね。俺は、かすり傷一つ負はなかつたのだ。」
「そしてその学生の方は。」
「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍と云ふんだね。」
静子は、夫が免れた危険を想像する丈《だ》けで、可なり激しい感動に襲はれたと見え、目を刮《みは》つたまゝ暫らくは物も云はなかつた。
信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍に逢つたのは、大学生ばかりではないやうな気がした。自分も妻も、平和な気持を、滅茶々々にされた事が、可なり大きい禍であるやうに思つた。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に依つて、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだやうな気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢ひながら、優しい言葉一つさへ、かけてやる事が出来なかつた。
夫と妻とは、蒼白《まつさを》になりながら、黙々として相対してゐた。信一郎は、ポケットに入れてある時計が、何か魔の符でもあるやうに、気味悪く感ぜられ始めた。
美しき遅参者
一
青年の横死は、東京の各新聞に依つて、可なり精しく伝へられた。青年が、信一郎の想像した通り青木男爵の長子であつたことが、それに依つて証明された。が、不思議に同乗者の名前は、各新聞とも洩してゐた。信一郎は結局それを気安いことに思つた。
信一郎が、静子を伴つて帰京した翌日に、青木家の葬儀は青山の斎場で、執り行はれることになつてゐた。
信一郎は、自分が青年の最期を介抱した当人であると云ふ事を、名乗つて出るやうな心持は、少しもなかつた。が、自分の手を枕にしながら、息を引き取つた青年が、傷ましかつた。他人でないやうな気がした。十年の友達であるやうな気がした。その人の面影を偲ぶと、何となくなつかしい涙ぐましい気がした。
遺族の人々とは、縁もゆかり[#「ゆかり」に傍点]もなかつた。が、弔はれてゐる人とは、可なり強い因縁が、纏はつてゐるやうに思つた。彼は、心からその葬ひの席に、列りたいと思つた。
が、その上、もう一つ是非とも、列るべき必要があつた。青年の葬儀である以上、姉も妹も、瑠璃子と呼ばるゝ女性も、返すべき時計の真の持主も、(もしあれば)青年の恋人も、みんな列つてゐるのに違《ちがひ》ない。青年に、由縁《ゆかり》のある人を物色すれば、時計を返すべき持主も、案外容易に、見当が付くに違《ちがひ》ない。否、少くとも瑠璃子と云ふ女|丈《だけ》は、
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