はありませんわ。」
「メリメは、どんなものがお好きです。」
「みんないゝぢやありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になつてしまひましたが、原作はほんたうにいゝぢやありませんか。」
「あの女主人公《ヒロイン》を何うお考へになります。」
「好きでございますよ。」
言下にさう答へながら、夫人は嫣然と笑つた。
「妾《わたくし》さう思ひますのよ。女に捨てられて、女を殺すなんて、本当に男性の暴虐だと思ひますの。男性の甚だしい我儘だと思ひますの。大抵の男性は、女性から女性へと心を移してゐながら、平然と済してゐますのに、女性が反対に男性から男性へと、心を移すと、直ぐ何とか非難を受けなければなりませんのですもの。妾《わたくし》、ホセに刺し殺されるカルメンのことを考へる度毎に、男性の我儘と暴虐とを、憤らずにはゐられないのです。」
夫人の美しい顔が、興奮してゐた。やゝ薄赤くほてつた頬が、悩しいほどに、魅惑的《チャーミング》であつた。
信一郎は生れて初めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会つたやうに思つた。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考へずにはゐられなかつた。彼女は、愛らしく慎しく従順貞淑な妻には違ひない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないやうに、広い/\隔《へだゝり》が横はつてゐる。天気の話や、衣類の話や、食物の話をするときには立派な話相手に違ひない。
が、話が少しでも、高尚になり精神的になると、もう小学生と話してゐるやうな、もどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]と頼りなさがあつた。同伴の登山者が、わづか一町か二町か、離れてゐるのなら、麾《さしまね》いてやることも出来れば、声を出して呼んでやることも出来た。が、二十町も三十町も離れてゐれば、何《ど》うすることも出来ない。信一郎は、趣味や思想の生活では、静子に対してそれほどの隔《へだたり》を感ぜずにはゐられなかつた。
が、彼は今までは、諦めてゐた。日本婦人の教養が現在の程度で止まつてゐる以上、さうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。
が、彼は今瑠璃子夫人と会つて話してゐると、日本にも初めて新しい、趣味の上から云つても、思想の上から云つても優に男性と対抗し得るやうな女性の存在し始めたことを知つたのである。夫人と話してゐると、妻
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