「外交官の夫人! ほゝゝ、妾《わたくし》などに。」
さう云つたまゝ、夫人の顔は急に曇つてしまつた。外交官の夫人。彼女の若き日の憧れは、未来の外交官たる直也の妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲き出《いづ》ることではなかつたか。彼女が、仏蘭西《フランス》語の稽古をしたことも、みんなさうした日のための、準備ではなかつたか。それもこれも、今では煙の如く空しい過去の思出となつて了つてゐる。外交官の夫人と云はれて、彼女の華やかな表情が、急に光を失つたのも無理はなかつた。
瞬間的な沈黙が、二人を支配した。自動車は御成街道の電車の右側の坦々たる道を、速力を加へて疾駆してゐた。万世橋迄は、もう三町もなかつた。
信一郎は、もつとピツタリするやうな話がしたかつた。
「仏蘭西《フランス》文学は、お好きぢやございませんか。」
信一郎は、夫人の顔を窺ふやうに訊いた。
「あのう――好きでございますの。」
さう云つたとき、夫人の曇つてゐた表情が、華やかな微笑で、拭ひ取られてゐた。
「大好きでございますの。」
夫人は、再び強く肯定した。
七
「仏蘭西《フランス》文学が大好きですの。」と、夫人が答へた時、信一郎は其処に夫人に親しみ近づいて行ける会話の範囲が、急に開けたやうに思つた。文学の話、芸術の話ほど、人間を本当に親しませる話はない。同じ文学なり、同じ作家なりを、両方で愛してゐると云ふことは、ある未知の二人を可なり親しみ近づける事だ。
信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かつたやうに欣びながら、勢よく訊き続けた。
「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」
「はい、近代のものとか、古典《クラシックス》とか申し上げるほど、沢山はよんでをりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌ひでございますわ。何うも日本の文壇などで、仏蘭西《フランス》文学とか露西亜《ロシア》文学だとか申しましても、英語の廉価版《チープエヂション》のある作家ばかりが、流行《はや》つてゐるやうでございますわね。」
信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣な皮肉に苦笑しながら訊いた。
「モウパッサンが、お嫌ひなのは僕も同感ですが、ぢや、どんな作家がお好きなのです?」
「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌ひで
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