承諾をも聴かないのにも拘はらず、夫人はそれに定《きま》つた事のやうに、信一郎を促した。
 さう勧められると、信一郎は不安と幸福とが、半分宛交つたやうな心持で、胸が掻き乱された。彼は、心から同乗することを欲してゐたのにも拘はらず、乗ることが何となく不安だつた。その踏み段に足をかけることが、何だか行方知らぬ運命の岐路へ、一歩を踏み出すやうに不安だつた。
「あら、何をそんなに遠慮していらつしやるの。ぢや、妾《わたくし》が御先に失礼しますわ。」
 さう云ふと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履で、踏台《ステップ》を軽く踏んで、ヒラリと車中の人になつてしまつた。
「さあ! 早くお乗りなさいませ。」
 彼女は振り顧つて、微笑と共に信一郎を麾《さしま》ねいた。
 相手が、さうまで何物にも囚はれないやうに、奔放に振舞つてゐるのに、男でありながら、こだはり通しにこだはつてゐることが、信一郎自身にも、厭になつた。彼は、思ひ切つて、踏台《ステップ》に足を踏みかけた。
 信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。
 夫人は駭いたやうに、それを制した。
「あら、そんなことをなさつちや、困りますわ。まあ、殿方にも似合はない、何と云ふ遠慮深い方でせう。さあ此方《こちら》へおかけなさい! 妾《わたくし》と並んで。そんなに遠慮なさるものぢやありませんよ。」
 信一郎を、窘《たしな》めるやうに、叱るやうに、夫人の言葉は力を持つてゐた。信一郎は、今は止むを得ないと云つたやうに、夫人と擦れ/\に腰を降した。夫人の身体を掩うてゐる金紗縮緬のいぢり[#「いぢり」に傍点]痒《かゆ》いやうな触感が、衣服《きもの》越しに、彼の身体に浸みるやうに感ぜられた。
 給仕やボーイなどの挨拶に送られて、自動車は滑るやうに、玄関前の緩い勾配を、公園の青葉の闇へと、進み始めた。
 給仕人達の挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、烈しい興奮の裡に、夢みる人のやうに、恍惚としてゐた。

        六

 つい知り合つたばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たつた二度目に会つたときに、もう既に自動車に、同乗すると云ふことが、信一郎には、宛ら美しい夢のやうな、二十世紀の伝奇譚《ロマンス》の主人公になつたやうな、不思議な歓びを与へて呉れた。万世橋駅迄の二三分[#「二三分」はママ]が
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