三
丁度その時、兄のセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、162−下−8]ッチの奏《ひ》き初めた曲は、ショパンの前奏曲《プレリュウド》だつた。聴衆は、水を打つたやうな静寂《しゞま》の裡に、全身の注意を二つの耳に蒐めてゐた。が、その中で、信一郎の注意|丈《だけ》は、彼の左半身の触覚に、溢れるやうに満ち渡つてゐた。彼の左側には、瑠璃子夫人が、坐つてゐたからである。彼女は、故意にさうしてゐるのかと思はれるほどに、その華奢な身体を、信一郎の方へ寄せかけるやうに、坐つてゐた。
信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色の、金紗縮緬の着物の下に、軽く波打つてゐる彼女の肉体の暖かみをさへ、感じ得るやうに思つた。
彼女は、演奏が初まると、直ぐ独語のやうに、「雨滴《レインドロップス》のプレリュウドですわね。」と、軽く小声で云つた。それは、いかにもショパンの数多い前奏曲の中、『雨滴の前奏曲』として、知られたる傑作だつた。
彼女は、演奏が進むに連れて、彼女の膝の、夏草模様に、実物剥製の蝶が、群れ飛んでゐる辺《あたり》を、其処に目に見えぬ鍵盤が、あるかのやうに、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けてゐるのだつた。而も、それと同時に、彼女の美しい横顔《プロフィイル》は、本当に音楽が解るものゝ感ずる恍惚たる喜悦で輝いてゐるのだつた。其処には日本の普通の女性には見られないやうな、精神的な美しさがあつた。思想的にも、感覚的にも、開発された本当に新しい女性にしか、許されてゐないやうな、神々しい美しさがあつた。
信一郎は、時々彼女の横顔を、そのくつきり[#「くつきり」に傍点]と通つた襟足を、そつと見詰めずにはゐられないほど、彼女独特の美しさに、心を惹かされずにはゐられなかつた。
曲が、終りかけると、彼女は何人《なんぴと》よりも、先に慎しい拍手を送つた。
快い緊張から夢のやうに醒めながら、彼女は信一郎を顧みた。
「妹の方が、技巧は確《たしか》ですけれども、どうも兄の方が、奔放で、自由で、それ丈《だけ》天才的だと思ひますのよ。」
「僕も同感です。」信一郎も、心からさう答へた。
「貴君《あなた》、音楽お好き? ほゝゝゝ、わざ/\来て下さつたのですもの、お好きに定《きま》つてゐますわね。」
彼女は、二度目に会つたばかりの信一郎に、少しの気兼もないやうに、話した。
「好きです。高等学校にゐたときは、
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