辛く衝突を免れて、道の左へ外れた。信一郎はホツとした。が、それはまたゝく暇もない瞬間だつた。左へ躱した自動車は、躱し方が余りに急であつた為、機《はづ》みを打つてそのまゝ、左手の岩崖を墜落しさうな勢ひを示した。道の左には、半間ばかりの熊笹が繁つてゐて、その端《はづれ》からは十丈に近い断崖が、海へ急な角度を成してゐた。
 最初の危機には、冷静であつた運転手も、第二の危険には度を失つてしまつた。彼は、狂人のやうに意味のない言葉を発したかと思ふと、運転手台で身をもがいた。が、運転手の死物狂ひの努力は間に合つた。三人の生命を託した車台は、急廻転をして、海へ陥ることから免れた。が、その反動で五間ばかり走つたかと思ふと、今度は右手の山の岩壁に、凄じくぶつ突《つか》つたのである。
 信一郎は、恐ろしい音を耳にした。それと同時に、烈しい力で、狭い車内を、二三回左右に叩き付けられた。眼が眩んだ。しばらくは、たゞ嵐のやうな混沌たる意識の外、何も存在しなかつた。
 信一郎が、漸く気が付いた時、彼は狭い車内で、海老のやうに折り曲げられて、一方へ叩き付けられてゐる自分を見出した。彼はやつと身を起した。頭から胸のあたりを、ボンヤリ撫で廻はした彼は自分が少しも、傷付いてゐないのを知ると、まだフラ/\する眼を定めて、自分の横にゐる筈の、青年の姿を見ようとした。
 青年の身体は、直ぐ其処にあつた。が、彼の上半身は、半分開かれた扉から、外へはみ[#「はみ」に傍点]出してゐるのであつた。
「もし/\、君! 君!」と、信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な苦悶の声を耳にしたのである。信一郎は水を浴びたやうに、ゾツとした。
「君! 君!」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答へなかつた。たゞ、人の心を掻きむしるやうな低いうめき声が続いてゐる丈《だけ》であつた。
 信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味の悪い紫赤色を呈してゐる。それよりも、信一郎の心を、脅やかしたものは、唇の右の端から、顎にかけて流れる一筋の血であつた。而《しか》もその血は、唇から出る血とは違つて、内臓から迸つたに違ひない赤黒い血であつた。


 返すべき時計

        一

 信一郎が、青年の身体をやつと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されてゐた運転手は
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