恋人とのいろ/\な会合が、心の中に蘇へつて来た。どの一つを考へても、それは楽しい清浄な幸福な思出だつた。二人は火のやうな愛に燃えてゐた。が、お互に個性を認め合ひ、尊敬し合つた。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく湿《うる》んでゐる公園の木下暗《このしたやみ》を、ベエトーフェンの『月光曲』を聴いた感激を、語り合ひながら、辿つた秋の一夜の事も思ひ出した。新緑の戸山ヶ原の橡《とち》の林の中で、その頃読んだトルストイの「復活」を批評し合つた初夏の日曜の事なども思ひ出した。恋人であると共に、得難い友人であつた。彼女の趣味や知識の生活に於ける大事な指導者だつた。
恋人の凜々しい性格や、その男性的な容貌や、その他いろ/\な美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。若《も》し子爵の来訪の用向きが、自分の想像した通りであつたら、(それが何と云ふ子供らしい想像であらう)とは、打消しながらも、瑠璃子の真珠のやうに白い頬は、見る人もない部屋の中にありながら、ほのかに赤らんで来るのだつた。
が、来客の話は、さう永くは続かなかつた。瑠璃子の夢のやうな想像を破るやうに、応接室の扉《ドア》が、父に依つて荒々しく開かれた。瑠璃子は、客を送り出すため、急いで玄関へ出て行つた。
見ると父は、兄の家出を見送つた時以上に、蒼い苦り切つた顔をしてゐた。杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、微笑の影も見せず、周章として追はれるやうに玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てゝ、あわたゞしく去つてしまつた。
父は、自動車の後影を憎悪と軽蔑との交つた眼付で、しばらくの間見詰めてゐた。
「お父様どうか遊ばしたのですか。」瑠璃子は、おそる/\父に訊いた。
「馬鹿な奴だ。華族の面汚しだ。」父は、唾でも吐きかけるやうに罵つた。
七
杉野子爵に対する、父の燃ゆるやうな憎悪の声を聞くと、瑠璃子は自分の事のやうに、オドオドしてしまつた。胸の中に、ひそかに懐いてゐた子供らしい想像は、跡形もなく踏み躙られてゐた。踏んでゐた床が、崩れ落ちて、其儘底知れぬ深い淵へ、落ち込んで行くやうな、暗い頼りない心持がした。之迄《これまで》でさへ、父と父との感情に、暗い翳のあることは、恋する二人の心を、どんなに傷《いたま》しめたか分らない。それだのに、今日はその
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