ともしないような堅牢なものになった。
 男の子が生れたその翌年に、今度は女の子が生れ、その二年目に、今度はまた男の子が生れた。子供の成長とともに、俊寛の幸福は限りもなく大きくなっていった。鬼界ヶ島に流されたことが、自分の不運であったか幸福であったか分からない、とまで考えるようになっていた。

          四

 有王《ありおう》が、故主の俊寛を尋ねて、都からはるばると九|国《ごく》に下り、そこの便船を求めて、硫黄商人の船に乗り、鬼界ヶ島へ来たのは、文治《ぶんじ》二年の如月半《きさらぎなか》ばのことだった。
 寿永《じゅえい》四年に、平家の一門はことごとく西海《さいかい》の藻屑《もくず》となり、今は源家の世となっているのであるから、俊寛に対する重科も自然消え果てて、赦免の使者が朝廷から到来すべきはずであったが、世は平家の余類追討に急がわしく、その上、俊寛は過ぐる治承三年に、鬼界ヶ島にて絶え果てたという風聞さえ伝わっていたから、俊寛のことなどは、何人《なんびと》の念頭にもなかった。
 ただ、故主を慕う有王だけは、俊寛の最期を見届けたく、千里の旅路に、憂《う》き艱難《かんなん》を重ねて、鬼界ヶ島へ下ったのである。
 島へ上陸した有王は、三日の間、島中を探し回った。が、それらしい人には絶えて会わなかった。島人には、言葉不通のため、ききあわすべき、よすがもなかった。そのうちに、便乗してきた商人船の出帆の日が迫った。今は俊寛が生活した旧跡でも見たいと思って、人の住む所と否とを問わず、島中を縫うように駆け回った。
 四日目の夕暮、有王は人里遠く離れた海岸で、人声を聞いた。それが思いがけなくも大和言葉であった。有王は、林の中を潜って、人声のする方へ行った。見ると、そこは、ひろびろと拓かれた畑で、二人の男女の土人が、並んで耕しているのであった。しかも、彼らは大和言葉で、高々と打ち語っているのであった。有王は、おどろきのあまりに、畑のそばに立ち竦《すく》んでしまった。有王の姿を見たその男は、すぐその鍬を捨ててつかつかとそばへ寄って来た。
 その男は、じっと有王の姿を見た。有王も、じっとその姿を見た。その男の眉の上のほくろを見出すと、有王は、
「俊寛|僧都《そうず》どのには、ましまさずや」
 そう叫ぶと、飛鳥のように俊寛の手元に飛び縋《すが》った。
 その男は、大きく頷いた。そし
前へ 次へ
全20ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング