、飲食したことはなかった。彼は椰子の実の汁を吸っていると、自分の今までの生活が夢のように淡く薄れていくのを感じた。清盛、平家の一門、丹波少将《たんばのしょうしょう》、平判官《たいらのはんがん》、丹左衛門尉《たんさえもんのじょう》、そんな名前や、そんな名前に対する自分の感情が、この口の中のすべてを、否、心の中のすべてを溶かしてしまうような木の実の味に比べて、まったく空虚なつまらないもののような気がしはじめた。
 俊寛は、口の中に残る快い感覚を楽しみながら、泉のほとりの青草の上に寝た。そして、過去の自分の生活のいろいろな相《そう》を、心の中に思い出してみた。都におけるいろいろな暗闘、陥擠《かんせい》、戦争、権勢の争奪、それからくる嫉妬、反感、憎悪。そういう感情の動くままに、狂奔《きょうほん》していた自分のあさましさが、しみじみ分かったような気がした。船を追って狂奔した昨日の自分までが、餓鬼《がき》のようにあさましい気がした。煩悩《ぼんのう》を起す種のないこの絶海の孤島こそ、自分にとって唯一の浄土ではあるまいか。康頼や成経がそばにいたために、都の生活に対する、否、人生に対する執着が切れなかったのだ。この島を仮のすみかと思えばこそ、硫黄ヶ岳に立つ煙さえ、焦熱地獄に続くもののように、ものうく思われたのだ。こここそ、ついのすみか[#「すみか」に傍点]だ。あらゆる煩悩と執着とを断って、真如《しんにょ》の生活に入る道場だ。そう思い返すと、俊寛は生れ変ったような、ほがらかな気持がした。
 ふと、寝がえりを打つと、すぐ自分の鼻の先に、撫子《なでしこ》に似た真っ赤な花が咲いていた。それは、都人《みやこびと》の彼には、名も知れない花だった。が、その花の真紅《しんく》の花弁が、なんという美しさと、清らかさを持っていたことだろう。その花を、じっと見詰めていると、人間のすべてから知られないで、美しく香《にお》っている、こうした名も知れない花の生活といったようなものが考えられた。すると、孤島の流人である自分の生活でさえ、むげ[#「むげ」に傍点]に生甲斐のないものだとは思われなくなった。彼は、自殺しようとした自分の心のあさはかさを恥じた。彼の心には、今新しい力が湧いた。彼は勇躍して立ち上った。そして、海岸へ走り出た。いつもは、魂も眩《くら》むようにものうく思われた大洋が、なんと美しく輝いていたことだ
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